教養歴史

マンガ『キングダム』にも登場する古代中国の帝王「始皇帝」についてわかりやすく解説

中国内陸部の陝西省にある驪山。この場所には、広大な中国を初めて統一した始皇帝が埋葬されています。人質の子という不安定な境遇から、わずか13歳で秦の王に即位すると李斯などを登用して国力を増強。38歳で中国大陸を統一し、皇帝を名乗りました。万里の長城などの巨大建造物をつくり、治世の永遠を夢見た始皇帝は不老不死の薬を求めますが49歳でこの世を去りました。今回は始皇帝についてわかりやすく解説します。

父、荘襄王と少年時代の政

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始皇帝の父である荘襄王(子楚)は、秦の世継ぎである安国君の子の一人でしたが、有力な後ろ盾がおらず、休戦協定の人質として趙に送られていました。彼に目を付けたのが豪商の呂不韋です。呂不韋は、子楚に価値を認め自分の財力を投じて子楚を盛り立てました。子楚は呂不韋の芸者である趙姫を気に入り、呂不韋から譲り受けます。彼女こそ、始皇帝の母親でした。

人質として趙都邯鄲に送られた秦の王子、子楚

戦国時代、秦は渭水盆地を支配する西方辺境の国に過ぎませんでした。秦を強国にのし上げたのは第28代の王である昭襄王です。昭襄王は白起将軍を登用し、敵対する国を打ち破りました。その結果、秦は戦国時代の七つの国の中で最も強大な国となります。

昭襄王の後継者として選ばれた王子が安国君でした。安国君には20人以上の子がいたため、有力な後ろ盾がないものは外交の駒として人質に出されます。子楚も人質に出された王子の一人でした。

昭襄王は必要とあらば、人質がいようと攻め込んでくるとみなされるような王だったため、人質である子楚はあまり大事に扱われていませんでした。そのため、秦の王子でありながら子楚はみすぼらしい服装をしていたといいます。

子楚と豪商呂不韋の出会い

趙の都邯鄲で冷遇されていた子楚に目を付けた人物がいました。韓の国の大商人である呂不韋です。呂不韋は商売の才能があり、一代で莫大な富を手に入れていました。

趙の都邯鄲を訪れた呂不韋は、冷遇されている秦の王子のうわさを聞きつけます。呂不韋は子楚を見るなりすっかり気に入りました。そして、「奇貨居くべし」と思ったといいます。

奇貨とは珍しい品物という意味。この瞬間、呂不韋は一世一代の投資をすることを決意しました。呂不韋は、秦の国に赴き安国君の寵姫である華陽夫人に接触。子楚を売り込みます。

呂不韋は子楚に自分の全財産をつぎ込んだといってもいいでしょう。子楚の父である安国君は紀元前250年に孝文王として即位しますが、ほどなく死去。子楚が荘襄王として即位します。呂不韋は賭けに勝ちました。

政の誕生と秦への脱出

子楚が安国君の後継者となったころ、子楚は呂不韋の連れてきた芸者の一人だった趙姫を見て気に入り、呂不韋に趙姫を譲ってくれるよう頼みます。当時、趙姫は呂不韋と関係を持っていたそうですが、呂不韋は将来の投資のためと考え、子楚の求めに応じ趙姫を子楚に差し出しました。

それからしばらくして、趙姫は一人の男子を生みます。その子は「」と名付けられました。歴史書である『史記』の記述などから、政の父親が子楚なのか、呂不韋なのかあいまいな点がありますが、呂不韋が父親であるという説は現在では否定的にとらえられています。

紀元前258年から紀元前257年にかけて、秦と趙は戦争状態となり邯鄲は秦軍に包囲されました。趙は人質の子楚を殺害しようとしましたが、呂不韋が子楚を秦へと逃がします。しかし、妻子を連れて逃げることまではできなかったため、趙姫と政は戦争が終わるまで邯鄲に潜伏しました。戦争が終結すると趙姫と政は秦に帰ります。

13歳で即位した若き秦王政

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政にとって祖父にあたる孝文王は即位後、わずか3日で死去。かわって、父である子楚が荘襄王として秦王に即位しました。荘襄王も在位わずか3年で死去すると、13歳の政が秦王に即位します。政は呂不韋の補佐で政治を始めますが、嫪毐の乱で呂不韋が失脚すると法家を登用し、自ら政治をおこないました。そして、前人未到ともいえる中国統一を成し遂げます。

呂不韋を後見として即位した少年王

「奇貨」だった子楚が秦の荘襄王として即死すると、呂不韋は政治のトップである丞相に任命されます。そればかりか、黄河中流域の洛陽付近にある10万戸を与えられ文信侯に封じられました。

紀元前246年、荘襄王が在位3年で死去し、政が秦王として即位したのちも呂不韋は丞相として政治の中心にいました。このころ、呂不韋は父に次ぐものという称号である「仲父」の称号を授けられ、まさに絶頂期を迎えます。

一方の政は、直接政治は行わず、呂不韋らに任せる形を取りました。年が若く、人質の子であったことなどから独自の地盤を持っていなかった政としては、呂不韋に頼らざるを得なかったのかもしれませんね。

嫪毐(ろうあい)の乱と呂不韋の失脚

秦で位人臣を極めていた呂不韋にとって心配の種は政の母親である趙姫でした。荘襄王の死後、未亡人となった趙姫は嫪毐(ろうあい)という人物と密通していたといわれます。

趙姫は都の咸陽を離れ、秦の旧都である雍に移り住み、愛人である嫪毐と過ごしていました。というのも、呂不韋は趙姫と距離を置くため、嫪毐を愛人として趙姫に紹介したからです。このことが発覚すれば失脚してしまうと呂不韋は恐れていました。

やがて、趙姫と嫪毐の密通は政の知るところとなります。嫪毐は、配下とともに反乱を試みますがあっという間に鎮圧されてしまいました。嫪毐は車裂きの刑とされます。

秦の法律では、自分が推薦した人物が有罪となると、推薦者も連座させられますが、呂不韋は今までの功績があったので丞相の罷免と蟄居ですみました。しかし、蟄居後も呂不韋の力は衰えなかったため、蜀の地に流刑とされます。呂不韋は自らの前途に絶望し、命を絶ちました。

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