実はこんなにあった!中国の歴史上、首都となった都市についてまとめてみた
関中に置かれた都
黄河の支流である渭水(いすい)。大きく蛇行した黄河が川の向きを南から東にかえるあたりで黄河に合流する川です。現在の陝西省にあたる渭水流域は関中とよばれ、西周や秦、前漢が都をおきました。西周の鎬京、秦の咸陽、前漢の長安はいずれも古代中国で重要な都市として繁栄します。
西周の都、鎬京
中国で、現在確認されている最も古い王朝は殷です。殷は黄河中流域の中原を中心に支配地を広げます。殷の都から西の渭水盆地には周という国がありました。周の武王は殷の紂王を牧野(ぼくや)の戦いで打ち破り、中原を支配します。
周が都をおいたのが渭水盆地の鎬京。鎬京の正確な場所は特定されていませんが、現在の西安市近郊にあったと考えられます。紀元前770年、北方の遊牧民である犬戎(けんじゅう)が周に侵入し、周の幽王を殺害してしまいました。鎬京は犬戎に占領されたため、周の王子は西へと逃れます。
周の王子がたどり着いたのは周の時代に副都として扱われていた洛邑でした。鎬京に都をおいていた時代を西周、洛邑に都をおいていた時代を東周といいます。
始皇帝の秦の時代の都、咸陽
周は東に逃れた後、国力を弱めていきました。このころ、中国各地を治めていた諸侯は半ば自立状態となります。紀元前403年、大諸侯だった晋が韓・魏・趙の三国に分裂したことをきっかけに、各地の諸侯たちが七国に分立する戦国時代が始まりました。
戦国時代の七つの国は戦国の七雄とよばれます。その中で最も強大になったのが秦でした。秦が都をおいた咸陽は渭水の北岸にあります。始皇帝が七国を滅ぼしたのちは、始皇帝が全国の富豪を咸陽に移住させたため、咸陽はさらに繁栄しました。
始皇帝は咸陽の南に阿房宮という巨大宮殿を建設。阿房宮は中国全土から労働力を動員して作られます。また、咸陽の近郊には始皇帝の墓である始皇帝陵やそれを守るかのように配置された兵馬俑がありました。
始皇帝の死後、咸陽を占領した楚の将軍項羽は咸陽を焼き払い、徹底的に破壊。阿房宮もこの時炎上します。「史記」によれば、咸陽を焼く炎は三か月にわたって燃え続けました。
前漢の劉邦が築いた前漢の都、長安
項羽と覇権を争ったのが劉邦でした。劉邦は垓下の戦いで項羽に勝利し、新しい王朝である漢を建国。漢は劉邦が建国した前漢と、前漢滅亡後に光武帝が建国した後漢があります。前漢が都をおいたのが長安でした。
長安の建設は劉邦時代に始まり、二代皇帝の恵帝の時に完成します。前漢の長安はのちの時代の都城と異なり、四角い形ではなく、やや不規則な形をしていました。形が不規則な理由は、前漢時代の長安が最初から計画的につくられた都ではなかったからです。
城内の南西の丘には皇帝が住む未央宮(びおうきゅう)が建てられました。長安城は高さ8メートルの城壁に囲まれ、城内には東西の市が設けられます。長安は前漢200年の間、首都として繁栄しました。
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唐の最盛期に玄宗皇帝や楊貴妃が暮らした都、長安
後漢以降、都が中原の洛陽に移っても長安は重要な都市であり続けました。分裂時代である魏晋南北朝時代には、長安周辺を支配した前秦、西魏、北周などの首都として機能します。
北周を滅ぼし、隋を建国した楊堅は重臣の宇文愷(うぶんがい)に命じて、従来の長安と別の場所に新都を造営させました。はじめ、新しい都は大興城(だいこうじょう)と称されますが、のちの時代には長安とよばれます。
長安は隋やその次の王朝である唐の都となりました。唐は中国本土だけではなく、西域とよばれた中央アジアまで支配権を広げた王朝です。そのため、都の長安は様々な民族が行き交う国際都市となりました。
遣唐使として訪れた阿倍仲麻呂は長安で唐の高官として出世。また、密教研究のため中国を訪れた空海も長安で生活します。のちに、日本につくられた平城京などは唐の長安を模倣したとされるなど、日本人にとってもなじみ深い都となりました。
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中原や北方に置かれた都
渭水盆地と並ぶ中国北部の中心地域が黄河中流域である中原です。洛陽は渭水盆地と華北平原を結ぶ重要地点であり交通の要衝でした。隋の時代につくられた大運河のそばにつくられたのが北宋の都となる開封です。大運河の北の端にあったのが北平、のちに北京とよばれるようになる街でした。中原や華北の都を整理しましょう。