南北朝時代室町時代日本の歴史

朝廷分裂!南朝と北朝が対立した「南北朝時代」の全貌をズバッと解説!

世界の歴史をいろいろと調べていると、国がいくつかに分裂したり、二つに分かれて王様が二人存在した時期があったり、そんなことが度々起きています。日本のような島国には無縁の話かな、と思いきや、日本にも過去、朝廷が二つ、天皇が二人存在した時期がありました。時代区分の名称としては「南北朝時代」と呼ばれているこの時代、南朝と北朝に分裂して互いに「うちが本物、あっちは偽物」と言い合っていたのです。いったいどうしてそんなことになってしまったのか、この記事ではそんな「南北朝時代」について詳しく解説します。

なぜ対立状態に?南北朝時代の始まりと原因を探れ!

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日本の長い歴史の中で、天皇や将軍の後継者争いは幾度となくあったかと思います。しかし実際に朝廷が二つに分かれてしまっていたとなると一大事。どうしてそんなことになってしまったのか、まずは「南北朝時代」の時代背景とはじまりについて見ていくことにいたしましょう。

南北朝時代とはいつ頃のこと?

南北朝時代の期間は、一般的には、1336年から1392年までのおよそ56年間のことを指します。

時代区分としては、鎌倉時代(1185年~1333年)と室町時代(1336年~1573年)の間。歴史年表などでは「南北朝」と独立して記さず、室町時代に含めることが多いようです。

この間、日本の朝廷は「北朝(京都)」と「南朝(吉野)」に分かれ、天皇が2人に。どちらが本筋か、あれやこれや対立し続けていました。

ただ、分裂したのは1333年からですが、火種は鎌倉時代の中頃、1200年代半ば頃から徐々に燻り始めています。

なぜそんなに揉めてしまったのでしょうか。

それは、朝廷の力が弱まって、自力で解決することができなくなっていたため、と考えられています。

それともうひとつ、朝廷に対して影響力を持つ鎌倉幕府の影響もありました。

朝廷は100年近くゴタゴタと揉めに揉めて、結局、北と南の2つに分裂してしまうのです。

発端はやっぱり皇位継承問題

朝廷が北と南、2つに分裂するきっかけはなんだったのでしょう。

歴史を振り返ると、日本に限らず、世界中の国で似たようなことが起きています。そう、後継者争いです。

1246年(寛元4年)、鎌倉時代の半ば頃のこと。第88代後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は権力を保持するため、息子の久仁親王(後の後深草天皇・ごふかくさてんのう)に天皇の座を譲って院政をやろうとします。この時、久仁親王はまだ4歳でした。

後嵯峨上皇の院政はこの後、長い間続きます。

時が流れて1258年、後嵯峨上皇は後深草天皇に対して「退位して弟の恒仁親王に天皇の座を譲って」と言い渡し、亀山天皇として即位させてしまうのです。亀山天皇は当時10歳でした。

さらに1268年、後嵯峨上皇は出家して法皇となり、亀山天皇の息子の世仁親王を皇太子にします。

院政を続けたいがためにややこしいことを続ける後嵯峨上皇。いずれは、後深草天皇か亀山天皇か、自分の息子のどちらかを天皇の座に据えるつもりだったのかもしれませんが、きちんと表明しないうちに、1272年、かき回すだけかき回して崩御。

後嵯峨はん、何してんねん……。

一度は亀山天皇の息子を皇太子にしていますので、ゆくゆくは亀山天皇の系列に継がせるつもりだったのかもしれません。しかしはっきりと遺言を聞いた者はおらず、一度は退けられた後深草天皇(上皇)もこれでは納得できない。後深草上皇、亀山天皇の対立は日に日に強くなっていきます。

両者譲らず「両統迭立」

後深草上皇(兄)と亀山天皇(弟)、両者とも譲らず、後継者問題は揉めに揉めまくりました。

それぞれ、ゆかりの深い寺院などの名称を取って「持明院統(じみょういんとう)」「大覚寺統(だいかくじとう)」などと呼ぶこともあります。

この頃の朝廷にはもう、こうした問題を自分たちで解決する力がなくなっていました。

具体的に行動を起こす財力や実行力がなくても、相手に譲る気はありません。

後深草上皇からすれば、父・後嵯峨法皇がちゃんとした遺言を残していなかったことは、言わば天皇の座に返り咲くチャンス。自分もしくは自分の息子を天皇に、と踏ん張ります。

どうにもならなくなって困り果てた朝廷は、鎌倉幕府に助けを求めました。

鎌倉幕府からすれば「勝手に揉めておいて何なんだ、自分たちで何とかしろ」と言いたいところですが、これ以上揉め事が長引くのもよくありません。

「両方の家系が、交互に天皇になってはどうか」とアドバイス。いわゆる両統迭立(りょうとうてつりつ・世襲君主が2家系に分裂し交代で君主を即位させている状態)です。

だいたいこの時期、元寇があったりして、鎌倉幕府もそうそう朝廷の揉め事にかまってばかりいられません。

もともと揉めている両者のこと、おとなしく「交代で」なんてうまくいくわけがありません。相変わらず「うちが本家」「うちが正当な血筋」と言い合いになり、そのたびに鎌倉幕府が仲裁に入る……という状態が何年も続きます。

南北朝時代はなぜ長引いた?その後の流れを徹底解明!

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ここまでで既に、完全に分裂状態となってしまっていますが、実はまだ、南北朝時代は始まっていません。持明院統も大覚寺統も、具体的な行動に出ることもできず、ぐずぐずと燻っている状態が続きます。本番はこれから。南北朝時代の始まりと、なぜ56年も続いたのか、その後の様子を探っていきましょう。

大覚寺統・後醍醐天皇の野望

両統迭立状態をしぶしぶ受け入れつつ、持明院統と大覚寺統の対立は、なんだかんだ、収拾しないままグダグダ続いていました。

一応、後深草天皇(89代:持明院統)、亀山天皇(90代:大覚寺統)の次に、亀山天皇の息子の後宇多天皇(91代:大覚寺統)が即位。伏見天皇(92代:持明院統)、後伏見天皇(93代:持明院統)、後二条天皇(94代:大覚寺統)、花園天皇(95代:持明院統)と、どうにか両系統から天皇を輩出し、揉めながらも何とか均衡を保っていました。

事態に変化が起きたのは、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇のときです。

後醍醐天皇ももちろん、現状(両統迭立)に不満を抱いていました。

そしてこの人には、具体的な行動を起こす実行力があったのです。

後醍醐天皇の怒りの矛先は次第に、鎌倉幕府へと向けられていきます。そしてついに、鎌倉幕府を倒す計画を立てるのです。

倒幕計画は少なくとも2度ありました。しかしいつも寸でのところでバレてしまい、うまくいきません。1331年(元弘元年)には、天皇即位に必要となる「三種の神器」を盗んで逃走。捕まって島流しになります。

この頃になると、楠木正成や足利尊氏、新田義貞など、倒幕に傾く武士が次々出現。後醍醐天皇は彼らの協力を得て島から帰還し、1333年、鎌倉幕府を滅亡に追いやるのです。

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