京都と吉野・朝廷がふたつ
倒幕に成功した後醍醐天皇は、朱子学に基づいた新しい政治を開始(建武の新政)。しかしあまりに革新的過ぎて周囲の武将たちの賛同を得られず、後醍醐天皇はあっという間に孤立してしまいます。
後醍醐天皇は自分にたてつく足利尊氏と対立。何度か戦を交えますが、結局尊氏の前に敗北し、三種の神器を朝廷に返納。自身は奈良の吉野に逃亡します。
足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立。京都に室町幕府を開き、征夷大将軍となります。
しかし!転んでもただでは起きないのが後醍醐天皇です。「返した三種の神器はニセモノ。本物はこっちにあるのさ」とか言って、光明天皇は正式な天皇ではないと主張。吉野に朝廷を開きます。
光明天皇がいる京都が「北朝」、後醍醐天皇が開いた奈良の吉野が「南朝」です。
こうして、すったもんだしているうちに、北朝と南朝、朝廷が2つになってしまいました。
即位に執念を燃やした後醍醐天皇ですが、1339年(延元4年)、この世を去ります。
南朝をつぶして北朝に統一するチャンス!と思いきや、京都では、室町幕府内の勢力争いなどが起きて、南朝どころではありません。
そうこうしているうちに南朝が息を吹き返し、再び平行線状態に。その後も、北朝と南朝でたびたび戦が起き、対立状態は56年間続きます。
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足利義満降臨で北朝の勝利
後嵯峨天皇の時代から150年余りの時が経っても平行線のまま、誰にもどうすることもできず、幕を引くことができる人も現れず、混沌としていた南北朝時代。
一度分裂してしまうと、もう何でもありです。
「幕府に不満があったら南朝に行けばよい」的な風潮が蔓延。「北朝=幕府に味方する人々」「南朝=幕府に歯向かう人々」という具合で、これでは幕府の運営もままなりません。
ここで登場するのが、室町幕府3代将軍・足利義満です。
義満は武力で推すのではなく、南朝に味方する武将たちをじわじわと囲い込み、弱体化。三種の神器を返還させ、南北統一を果たします。
しかし、室町幕府全盛期を築いた義満をしても、南朝を完全に収束させることはできませんでした。南朝側は不服を申し立て、吉野で南朝の復興を叫び続けます(後南朝)。
後南朝の最期は、1457年といわれています。
1246年に後嵯峨天皇が院政をやると言い出してから200年余り。日本の混乱期はようやく終わりの時を迎えることとなりました。
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原因はやっぱり後継者争い:日本の歴史のターニングポイント・南北朝時代
世界の歴史を学んでいると、必ずといっていいほど出てくる後継者争い。ローマ帝国やモンゴル帝国、オスマントルコなど、国が分裂したり戦争に発展したり、巨大帝国になればなるほど、その影響は計り知れません。そしていつの時代もつらい目に合うのは庶民です。権力を持ったら、権力にしがみつくのではなく未来のことも考えてしっかり行動するべき。私個人は今後も何か権力を持つ予定はありませんが、権力を持つ者の使命について改めて考えさせられました。