悪化の一途をたどった戦局
ミッドウェー海戦の敗北で空母を中心とする南雲機動部隊を失った日本海軍は、次第にアメリカ軍の物量作戦に押されます。1944年7月、日本は絶対国防圏と位置づけたサイパンを失いました。サイパンを手に入れたアメリカ軍は恒常的に日本本土を空襲します。この状況下で小磯内閣が総辞職。海軍大将で元侍従長の鈴木貫太郎が組閣しました。連合国は日本に対し無条件降伏を求めるポツダム宣言を発しましたが、日本政府は黙殺します。
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サイパン陥落
1944年6月、アメリカ軍はマリアナ諸島にある重要拠点、サイパン島に上陸します。日本政府は1943年にサイパンを日本本土防衛の最重要拠点と位置づけ、東条内閣はサイパン島死守を掲げていました。
防衛体制が遅々として進まない中、アメリカ軍の来寇を迎え撃つことになります。サイパン島守備軍は6月から7月にかけて激しく抵抗しました。しかし、アメリカ軍の攻撃を防ぎきることが出来ず、7月7日、サイパン島守備隊は玉砕します。
この際、多くの民間人が戦闘に巻き込まれ、島の北端に追い詰められました。北端の断崖に追い詰められた日本人の多くが、崖から身を投げます。戦いの後、この断崖はバンザイクリフとよばれるようになりました。
恒常的に繰り返された本土空襲と疎開
サイパン島を制圧したアメリカ軍は大規模な飛行場を整備。本土から最新鋭の長距離爆撃機を移送・配備しました。それが、B-29です。サイパン島を拠点としたB-29はほとんど全ての日本本土の主要都市を射程に収めることが出来ました。
B-29は焼夷弾を投下し、火災に弱い日本の家屋を焼き尽くします。1945年3月、首都東京を対象として行われた東京大空襲では、十万人以上の死傷者が出ました。
他にも、太平洋ベルト沿いの主要な工業都市や各県庁所在地クラスの中小都市まで空襲の対象となります。都市部の住民のうち子供達は地方の農村に集団で疎開。都市部への空襲から子供達を守ろうとします。
こうして、アメリカ軍による戦略爆撃は毎日のように恒常的に繰り返され、日本の主要都市は焦土と化しました。
鈴木内閣の成立
1945年3月26日、沖縄本島近辺にある座間味島にアメリカ軍が上陸。いわゆる、沖縄戦が始まりました。小磯国昭内閣は戦局悪化の責任を取るとして総辞職します。
次の首相を決める重臣会議で首相に推薦されたのが海軍出身で侍従長も務めた鈴木貫太郎でした。鈴木は表面上、陸軍に同調し戦争を継続します。しかし、これ以上の戦争継続は不可能と考えていた鈴木は、終戦工作を行いました。
鈴木は内大臣の木戸幸一や海軍大臣の米内光政と連携し、ソ連に講和の仲介をしてくれるよう依頼します。しかし、ソ連は1945年2月のヤルタ会談で日ソ中立条約の破棄と対日参戦を決めていました。ソ連が日本に日ソ中立条約の破棄を通告しなかったのは、日本を油断させるためです。
こうしている間にも、戦局はどんどん悪化。日本海軍の象徴だった戦艦大和も1945年4月7日に撃沈されました。
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連合国によるポツダム宣言
1945年4月30日、ソ連軍に首都ベルリンを攻撃されたドイツのヒトラーはベルリンの総統官邸地下で自殺。5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏しました。
1945年7月、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳はドイツのポツダムで会談し、戦後処理と対日方針について話し合います。7月26日、アメリカ大統領トルーマンとイギリス首相アトリーが中国の蒋介石の同意を得たうえで共同でポツダム宣言を発表しました。
宣言の内容は、日本が直ちに無条件降伏を宣言せよというものです。ポツダム宣言にソ連は署名しませんでした。ソ連は、まだ日本と戦争をしておらず、当事国ではなかったからです。
日本はソ連が署名していないことにわずかながら希望を見出しました。その上で、鈴木内閣はポツダム宣言に対して「黙殺する」との声明を発表します。連合国は、鈴木内閣の声明は宣言を拒否するものだと受け止めました。
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