玉音放送と戦争の終わり
1945年8月15日正午、政府は国民が注目する中、「玉音放送」を全国に流しました。漢文調で書かれた「終戦の詔書」の詳細な意味はわからなくても、ニュアンスや周囲の人々の反応で、多くの国民は戦争が終わったことを知りました。9月2日、日本政府の代表が降伏文書に署名することで太平洋戦争が終結します。その後、マッカーサーを司令官にいただくGHQ(連合国軍総司令部)が日本政府を指導する形で占領政策がすすめられました。
玉音放送
1945年8月14日、日本政府は全国民に対し「15日正午より重大発表あり」と知らせていました。天皇自ら行う放送であることが告知されたのは15日の朝のことです。ポツダム宣言の受諾は事前に連合国に知らされていたため、アメリカ軍による空襲は8月15日未明の土崎空襲を最後に停止されていました。
正午になると、日本放送協会(NHK)のアナウンサーが簡単なアナウンスを行った後、天皇の肉声が録音された「玉音放送」が放送されます。
詔書は漢文調で書かれたもののため、すべての国民に理解できたわけではありません。しかし、周囲の人々の様子や雰囲気などから、どうやら、日本が戦争に負けたらしいということを国民の多くが知ることとなります。
昭和天皇は、「帝国政府ヲシテポツダム宣言ヲ受諾セシメタ」こと、原子爆弾などの新兵器で多くの犠牲が出たこと、これ以上の「忠良ナル臣民(国民)」の犠牲を出すことはできないことなどを述べました。
このまま、国土が破壊されては皇祖皇宗に申し訳が立たないとして、「堪ヘ難キヲ堪へ、忍ヒ難キヲ忍ヒ、モッテ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス」と戦争を終結したことを国民に伝えます。
降伏文書への調印
1945年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーは厚木飛行場に降り立ちました。その3日後の9月2日、アメリカ戦艦ミズーリの艦上で日本政府代表団が日本の降伏文書に署名します。
降伏文書には、日本がポツダム宣言を正式に受諾したこと、日本軍が直ちに戦闘行為を中止すること、日本政府や陸海軍は連合国軍総司令部の指示に従うこと、ポツダム宣言の内容を忠実に実行することなどが書かれていました。
日本では8月17日に鈴木貫太郎内閣が総辞職。かわって、皇族の東久邇宮稔彦王を首班とする内閣が成立します。降伏文書は東久邇宮内閣が署名しました。
ここに、4年にわたった太平洋戦争は名実ともに終結します。以後、日本政府はGHQとGHQ総司令官マッカーサー元帥の支配下に置かれました。
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マッカーサーによる日本統治と天皇の人間宣言
1945年9月2日以降、日本政府は連合国、特に主力を率いたアメリカの占領統治下に入りました。マッカーサーは日本政府に対し、ポツダム宣言の内容を誠実に履行するよう求めます。
これにより、日本政府は軍国主義者の公職追放や陸海軍の武装解除、戦争犯罪人の処罰、治安維持法の廃止や政治犯の即時解放などを実施しました。
1945年10月、東久邇宮内閣にかわって組閣した幣原喜重郎はマッカーサーから五大改革指令を受けます。マッカーサーの指示に従った日本政府は、婦人解放や財閥解体、労働組合の結成奨励などの政策が実行しました。
マッカーサーは昭和天皇について、戦後の統治に必要だと考え戦争責任を問わないことを決定します。1946年、昭和天皇は「人間宣言」を発し、自ら「神ではなく人間である」ことを強調しました。
戦争を終わらせた玉音放送
外交上、または法律上、太平洋戦争を終結させたのは降伏文書です。しかし、多くの国民にとって戦争が終わったのは8月15日でした。国民がそのように認識した理由は、8月15日に「戦争が終わった」という内容の玉音放送を聞いたからです。昭和天皇の玉音放送は、国民に戦争が完全に終わったことを実感させたことでしょう。その意味で、玉音放送は時代の区切りをつけた重要な放送だったのではないでしょうか。
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