玉音放送をめぐる動き
鈴木に内閣の「黙殺する」という声明をポツダム宣言の拒否と受け取った連合国は日本に対する攻勢を強めました。原爆投下、ソ連の対日参戦と続いた連合軍の攻勢の前に日本政府はポツダム宣言受諾を決断します。政府はポツダム宣言受諾を国民に伝えるため、昭和天皇の肉声で終戦の詔書を読み上げる「玉音放送」の実行を決めました。しかし、終戦に反対する勢力は玉音放送が録音されたレコードを奪い取ろうと宮城事件をおこします。
原爆投下とソ連の対日参戦
1945年8月6日、B-29「エノラゲイ」は広島に対して、原子爆弾「リトルボーイ」を投下しました。原子爆弾は一瞬にして10万人以上の人々の命を奪い去ります。8月9日、長崎に対しても原子爆弾が投下され、こちらも7万人以上の人々を死亡させました。
新型爆弾の凄まじい威力は日本の人々に大きな衝撃を与えたと考えられます。原爆と同じか、あるいはそれ以上の衝撃を日本の指導者層に与えたのがソ連の対日参戦でした。
日ソ中立条約の期限は1946年まででしたが、ソ連はヤルタ会談での密約にもとづき日ソ中立条約を破棄。満州国や樺太、千島に侵攻してきます。ソ連を仲介とする条件付き講和の見通しを失った日本政府は、新型爆弾の被害なども考慮しポツダム宣言受諾に大きく傾きました。
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昭和天皇の「聖断」
1945年8月10日未明、昭和天皇臨席のもとで最高戦争指導会議が開かれました。会議はポツダム宣言の早期受諾を主張する外務大臣らのグループと国体護持が保証されないなら、本土決戦するべきと主張する陸軍などのグループに分かれ、容易に結論が出ません。
議論の紛糾を見た鈴木貫太郎首相は「聖慮(昭和天皇の判断)をもって本会議の決定と致したい」と述べ、天皇に意思を確認しました。昭和天皇は外務大臣が主張する即時受諾案に賛同します。
御前会議で宣言受諾が決定されたことを受け、鈴木内閣は「終戦の詔書」を閣議決定。鈴木内閣はポツダム宣言を受諾する旨を、中立国のスイス・スウェーデンの駐日公使館を経て連合国に伝えます。同時に、昭和天皇がみずからのことばで、国民に直接、音声でポツダム宣言受諾を伝えることとしました。
玉音放送の録音と宮城事件
玉音とは、天皇の言葉のこと。玉音放送とは天皇の言葉を直接、放送することを意味します。昭和天皇は終戦の詔書を朗読し、レコード盤に録音しました。天皇の肉声が録音されたレコードを「玉音盤」といいます。
一方、陸軍の中にはポツダム宣言受諾を受け入れられない勢力もいました。1945年8月15日深夜、徹底抗戦を唱える陸軍の一部はクーデタをおこしてでも、本土決戦を行うべきだとし、天皇の肉声が録音された「玉音盤」を奪取しようとする宮城事件がおきます。
クーデタ派は近衛第一師団長を殺害し、一時、宮城を占拠しました。しかし、朝になると、他の陸軍が宮城に乗り込み、クーデタ派を排除します。
騒動が落ち着いて後、天皇の肉声が録音されたレコードは放送会館と第一生命館に搬入され、放送の準備が整いました。