維新を成し遂げた明治政府・中心は「薩長土肥」
江戸末期(幕末)、強い発言力を持っていた有力藩であり、近代日本に向けていち早く藩の内政改革を行っていたのが薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩。いわゆる「薩長土肥」と呼ばれる藩でした。徳川幕府の世が終わり、新しい時代のために組織された新政府でも、主要ポストに就いたのはこの四藩出身の志士たち。どんなメンバーが中心となっていたのか、詳しく見ていくといたしましょう。
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政府を支えるも逆賊扱いに・西郷隆盛(薩摩)
西郷隆盛(さいごうたかもり)は1828年(文政10年)、薩摩藩(現在の鹿児島県)の下級武士の家に生まれました。
その半生は、現代でも大河ドラマなどで何度も取り上げられており、最近では「せごどん」という呼び名でよく知られています。
明治政府では、参議という役職に就き、財務や軍備など様々な政務を兼任。新しい日本づくりに奔走し、新政府の中核を担います。
1873年(明治6年)、新しい日本のために組織された「岩倉使節団」がアメリカやヨーロッパへ出発。大久保利通や木戸孝允など政府の中心人物たちが長期間外遊に出かけたため、西郷は留守役としてさらに忙しい毎日を送ることになります。
明治政府はまだ走り出したばかり。誰もかれも慣れないことばかりで四苦八苦状態だというのに、やらなければならないことがたくさんあります。
この「岩倉使節団」の外遊、当初の予定より長期間に及び、結果的に2年近いものとなりました。国内でやらなければならないことが山ほどあるのに政府の主要人物が長期間留守に。しかもそれほどの成果もないというありさまで、使節団メンバーと留守役の西郷たちとの間に溝ができてしまうのです。
明治政府の強引な政策に、地方の元武士たちの不満が募っている頃でもありました。
結局、西郷は、地方の武士たちの矢面に立つような形で明治政府を去り、故郷・鹿児島へ。しかし西郷のこの動きが、逆に不満分子たちを終結させることになってしまい、西南戦争へとつながってしまいます。
最期は鹿児島の山中で同志たちとともに自刃。当初は逆賊とされていましたが、庶民の間では西郷人気は高まる一方だったと伝わっています。死後数年後、正三位という位階が贈られ、西郷隆盛の名誉は回復されました。
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初代内務卿としてトップに:大久保利通(薩摩)
大久保利通は1830年(文政13年)、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。
西郷隆盛とは同胞で幼馴染であり、若いころからともに助け合い、時には反目しあいながら切磋琢磨した間柄です。
倒幕から明治政府の立ち上げまで常に中心人物として活躍。西郷隆盛とともに江戸幕府を退け、新しい日本の国づくりに奔走します。
新政府の中では、西郷と同じく参議に就任。天皇中心の中央集権体制の確立を目指し、様々な政策を打ち立てます。
その後まもなく、大蔵卿(大蔵大臣)に就任。岩倉使節団の一員として欧米への外遊へ出向きます。
しかし発足間もない新政府を西郷たち留守役に任せたまま2年近く日本を離れていたことから、西郷たちとの間に意識のズレが。帰国早々、留守中の西郷たちの政務(特に朝鮮出兵にまつわる征韓論論争など)を問題視。長年苦楽をともにした西郷らを失脚させ、遠ざけてしまうのです。
留守中の西郷たちに苦労をかけたという意識はあったはず。しかし当時の大久保の脳裏には、アメリカやヨーロッパなど近代国家の様子がこびりついていたに違いありません。早く欧米に追いつかなければ。列強国と肩を並べるためにどうすればよいか、大久保利通は焦っていたものと思われます。
1873年(明治6年)に内務省を発足させ、自ら初代内務卿となって、実質上、明治政府のトップに立った大久保利通。富国強兵を掲げ、強引ともとれる政策を次々と打ち出していきます。
当然、日本全国あちこちから不平不満が噴き出しますが、大久保がひるむことはありません。1877年(明治10年)、鹿児島で挙兵した西郷隆盛を討伐するべく政府軍を指揮。ますます周囲の反感を買うこととなります。
1878年(明治11年)、馬車で移動中、紀尾井坂付近で刺客に襲われ、暗殺。強い日本を作るという志半ばにして、49歳の生涯を終えます。
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逃げの小五郎と呼ばれながら:木戸孝允(長州)
木戸孝允(きどたかよし)は1833年(天保4年)、現在の山口県萩市で医師をしていた和田家の長男として生まれます。
子供のころに桂家に養子に出て、以後、桂姓を名乗ることに。桂小五郎のという名前でも知られています。若い頃は文武両道。剣豪と言われていたのだそうです。
倒幕の気運が高かった長州藩の若手中心人物として活躍。尊王攘夷派のリーダーとして、時に佐幕派から命を狙われながら、幕末期には対立関係にあった薩摩藩と手を結んで倒幕に力を注ぎました。
明治政府発足後は、総裁局顧問専任となって実務をこなしていきます。その後、次第に政府内の役職や部門が整っていく中で、参与や文部卿などの要職を歴任。版籍奉還、廃藩置県、五箇条の御誓文、三権分立など、近代政治に欠かせない政策を次々と提言し、明治政府のブレインとして能力を発揮していきます。
大久保利通らとともに岩倉使節団にも加わり、欧米諸国を直に巡って民主主義のあり方を深く考察。日本に必要なものは軍備ではなく国民教育ではないかと、他の参議たちが掲げる富国強兵や征韓論とは異なる思想を貫きます。
この考え方が他の参議たちと合わず、1874年(明治7年)に参議を辞職。西南戦争の際は西郷軍征討に名乗りを上げますが、病が悪化し、西郷たち同士と、日本の行く末を案じながら、1877年(明治10年)にこの世を去ります。
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