早稲田大学の創立者:大隈重信(肥前)
大隈重信は1838年(天保9年)、肥前(佐賀)の武士の家に生まれます。
早稲田大学の創立者として知られる人物ですが、もとは武士。幼いころから広く学問を積んだ重信は、朱子学や蘭学のほかに英語も習得。幕末には尊王派として京都や長崎にも出向き、活躍します。
長崎ではアメリカ人宣教師フルベッキのもとで学び、英学塾を開校。早くから西洋学問の重要性を認識していたようです。
幕末時、肥前は倒幕に消極的だったため、一時は脱藩して長州藩など他藩との連携を目指しますが、連れ戻され謹慎していたこともありました。
明治政府では外国事務局判事として、江戸幕府が去った後の長崎に赴きます。
岩倉使節団外遊時は留守役として残り、財務でも能力を発揮。大蔵省で次官を務め、近代日本の基礎固めに奔走します。
使節団外遊時に沸き上がった征韓論では反征韓の立場をとり、佐賀出身で同胞であった江藤新平や副島種臣とは距離を置くことに。その後も政府内に残って大久保利通政権の中核として精力的に動きます。
大久保利通が暗殺された後、明治政府は伊藤博文を中心とした体制にシフト。大隈重信は伊藤内閣のもとで財務関連の改革を進め、貨幣制度の整備のほか、鉄道や電信など、近代日本の礎を築くことに注力します。
1878年(明治11年)には参議の主席となりますが、岩倉具視や伊藤博文との意見の対立などが重なり、失脚。1882年(明治15年)に東京専門学校を創立します。これが後の早稲田大学です。
1888年(明治21年)、一度は袂を分かれた伊藤内閣から声がかかり、外務大臣に就任。条約改正など外交に努めました。
その後の内閣でも、外務大臣をはじめいくつかの役職を兼任するなど何度も大臣の職に就き、1898年(明治31年)にはついに内閣総理大臣に就任して、板垣退助らとともに日本初の政党内閣・大隈内閣を発足させます。
このときはわずか半年ほどで内閣崩壊してしまいますが、大隈は1914年(大正3年)に再び総理大臣に。1916年(大正5年)に78歳で退任するまで、総理大臣を務めました。
退任後、病が悪化し、1922年(大正11年)に85歳で亡くなります。
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公家界のエリート:三条実美(公家)
三条実美(さんじょうさねとみ)は1837年(天保8年)、公卿三条家の三男として生まれます。
若いころから学問に長けていた実美は、兄の死後、若くして三条家の当主に。若干二十歳そこそこではありましたが、名門貴族のトップとして立派に役目を果たしていきます。
しかし、時代は幕末。1853年(嘉永6年)に浦賀にペリーが来航してから、京都も平穏無事というわけにはいきません。実美も激動の渦に巻き込まれていくことになるのです。
実美は尊王攘夷派として、また京都公家の有力者として、討幕派の藩士たちと通じ、活動を開始。紆余曲折繰り返し、一時は失脚という憂き目にあいながら、明治新政府発足時には副総裁に就任します。
1869年(明治2年)には右大臣、1871年(明治4年)には太政大臣となり、若き明治天皇を補佐する役を拝命。薩長土肥中心の明治政府において、公卿出身者として確固たる地位を築きます。
しかし明治政府内での実美は苦労の連続。西郷隆盛や板垣退助といった征韓派と、岩倉具視や大久保利通ら反征韓派の間で板挟みとなり、体調を崩して寝込むこともあったそうです。
同じ公家出身の岩倉具視と比べると、政治手腕の面ではやや頼りなさが否めなかった三条実美。初代内閣総理大臣の候補に名前が挙がったこともありましたが、結局、政治力・語学力などから初代総理は伊藤博文に決まります。
第2代総理大臣・黒田清隆が辞任した1889年には、第3代の山縣有朋就任までの2か月ほどの間、一時的に総理大臣を兼任。当人に強い政治力はなかったにせよ、家柄や人脈の多さなどからたびたび重用され、長きにわたり要職を務めていきました。
1891年(明治24年)、病で床に就き、53歳でこの世を去ります。
下級公家から成り上がり:岩倉具視(公家)
岩倉具視は1825年(文政8年)、公卿・堀河家の次男として生まれます。
若いころに岩倉具慶の養子に。岩倉家は決して身分の高い家柄ではありませんでしたが、岩倉具視は学問(特に和歌)を武器に有力者と親しくなり、どんどん出世していきます。
幕末には孝明天皇の侍従にまで出世。朝廷で大きな権力を持ち、朝廷と江戸幕府の協力体制を図るべく(公武合体)和宮と徳川家茂の結婚を画策したり精力的に動き回ります。
一時期、尊王攘夷派から非難を受け、京都中心地から離れて隠遁生活をしていたこともありました。しかしその間も、岩倉の政治手腕を頼って意見を求めに来る者が後を絶たなかったのだそうです。
薩長藩士を中心に倒幕の気運が高まると、大久保利通たちに知恵を与え、王政復古を成し遂げます。
明治政府では、参与や議定、大納言、右大臣といった職を歴任。幕末に締結された海外との不平等条約を改正するべく使節団(岩倉使節団)を組織して欧米への外遊にも赴きます。この使節団は残念ながら、条約改正という点では成功とは言い切れないものに終わりました。しかし欧米の産業・工業技術を目の当たりにすることができ、それなりの成果があったと考えられています。
帰国後は、意見の相違から、幕末から明治時代にかけてともに戦ってきた西郷隆盛と袂を分かつこととなってしまいますが、西郷・大久保亡き後も政府を支え、特に鉄道の普及に尽力。近代日本の礎を築きます。
1883年(明治16年)、癌を患って59歳で死去。国葬が行われた最初の人物としても知られています。
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江戸時代から明治へ、激動の明治維新の流れを調べるたびに、常に新しい発見があります。日本の発展を夢見て、世界の先進国の仲間入りを果たそうと、目指す方向は一緒だったはずなのに、ある者は志半ばで一線を退き、ある者は殺され、またある者は何十年も政治家として活動を続ける……。世が世なら、誰がどう生き残ってもおかしくなかったのだな、と改めて感じました。他にも大勢、多くの人々が明治政府に関わっていったのだと思いますが、誰か数名名前を挙げよと言われたら、やっぱりこのメンバーになるのではないでしょうか。