纏向古墳群の箸墓古墳とは
箸墓は、奈良県桜井市箸中にある前方後円墳で、墳丘長378mと全国11位、奈良県内では第3位の大きな規模の古墳です。しかも、3世紀の早い段階で築造されたと言われており、前方後円墳としても最古級の前方後円墳と言えます。なぜ、まだ弥生時代と言ってもいいほどのこの時期にこれほど大きな古墳が作られたかは不明です。まさに、邪馬台国の卑弥呼が女王として君臨していた時期に築造されています。この古墳の周濠は半分も残っていませんが、宮内庁などの調査の際には、円筒埴輪なども出土しているのです。
宮内庁では日本書紀の記述を元に、ヤマトトトビモモソ媛(ひめ)の陵墓として管理している墳墓になります。
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箸墓には古代の黒歴史が隠されている
箸墓ができた頃の奈良盆地全体の人口は、約1万人と言われ、このような巨大な古墳を築く力はなかったはずでした。記紀によると、この大和(やまと)の地に神武天皇(イワレヒコ)が入ったときには、すでに饒速日命(ニギハヤヒノミコト)がこの地にいたとされています。しかも、箸墓のある地域は三輪山の山麓にあたり、三輪山の主神は、大物主命(オオモノヌシ神)であり、出雲の支配者の別名なのです。
したがって、箸墓のできる前に、奈良盆地には出雲王朝の民族(出雲族)と倭族が侵入し、権力を握り、その権力をめぐって争っていたと考えられます。そして、その結果が現在の天皇家(当時は大王)につながったと言えるのです。記紀には、古代ロマンとして記載されているものの、実際には血みどろの暗黒の黒歴史エピソードが隠されていると言えます。
この、箸墓をはじめとした纏向古墳群にまつわるエピソードを見ていきましょう。
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箸墓の周辺は纏向古墳群と言われている
JR桜井線の巻向駅周辺には、箸墓だけでなく、ホケノ山古墳、東田大塚古墳、纏向勝山古墳、矢塚古墳など、多くの前方後円墳があり、纏向(まきむく)古墳群と呼ばれています。これらはすべて3世紀初頭から中盤にかけて作られた古墳で、最古の前方後円墳群と言われているのです。とくに、一番古いと言われているのがホケノ山古墳であり、一番大きいのが墳丘長278mある箸墓で、すべて巻向駅から徒歩で行ける距離にあります。JR桜井線からもその雄大で幻想的な墳丘を間近に見ることができるので、一度ご覧になってください。