古墳時代日本の歴史

黒歴史を示唆?古墳時代の幕開けを飾った「箸墓古墳」をご紹介

天皇家と出雲族の血生臭い黒歴史があった

すなわち、大和朝廷と出雲大国とは初めから大きな関係があり、当初は倭族と出雲族との間で勢力争いが展開され、倭族が大和やその周辺地域の支配権を確保したと考えられます。その血生臭い歴史(エピソード)は2代から9代の天皇の時代にも行われた結果、そのエピソードは、記紀から除かれているのです。そのエピソードは天皇家の正当性を揺るがすものだったのでしょう。そのため、2代から9代の天皇のエピソードはなく、歴史家は欠史八代と言っています。

しかし、実際には、よく読むとエピソードのない中でも系図などの中にはその黒歴史をうかがわせるものも含まれているのです。天皇家(大王家)は出雲族を排除したことから、その怨み(怨霊)を怖れて、三輪山に出雲族のオオモノヌシ神を祀ったのでしょう。

そして、代々天皇家の皇女がその神を祀る役目をしていたのです。ヤマトトトビモモソ媛はその象徴として描かれていたと言えます。

古事記の箸墓に関わるエピソード

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一方、古事記には、直接箸墓とは書かれていないものの、天皇家と出雲族の関わりを描いたエピソードがおさめられています。やはり、ここでも黒歴史を想起させてくれるのです。それをご紹介しましょう。

神武天皇の皇后イケスヨリ媛は出雲の神オオモノヌシ神の娘

神武天皇が、大和を平定して妻にめとったイケスヨリ媛はオオモノヌシ神の娘であり、この時点から天皇家出雲族の関係が始まっているのです。

古事記によれば、イケスヨリ媛の母セヤダタラ媛はたいそう美しかったので、オオモノヌシ神は一目惚れしたと言われています。そして、川の上に建てられた廁(かわや)に彼女が入った時に、オオモノヌシ神は川の中から矢に姿を変えて下から彼女の陰処を突いたのです。セヤダタラ媛は驚いて大騒ぎになりますが、その矢を床においたところ、オオモノヌシ神の姿が現れます。そして、そのまま彼女を妻にして、生まれたのがイケスヨリ媛であったと言われているのです。おそらく、夜這いによって生まれたのがイケスヨリ媛であったのでしょう。それにしても陰処(ホト)との関わりが多いですね。

そのため、皇后は最初ホトタタライススギ媛と呼ばれていたようです。

崇神天皇の時代には出雲族は衰退していた

古事記では、崇神天皇の御代に疫病が流行った時に、天皇は夢でオオモノヌシ神の祟りと知ります。そこで、出雲族でオオモノヌシ神の子孫であるオオタタネコを探し出して、三輪山のオオモノヌシ神を祀らせたところ、疫病は治まったと記されているのです。

このオオタタネコは、天孫一族のホヲリ命(海幸彦として知られているヒコホホデミ命)の妻の妹のイクタマヨリ媛(神武天皇の母)がまだ独り身の時に、生んだ子供の子孫でした。この場合もやはり、オオモノヌシ神が夜這いで生ませた子とされています。すなわち、オオタタネコは出雲族の子孫であり、この当時には没落していたのでしょう。

しかし、天皇家(大王家)には出雲族を滅ぼした記憶が残っていました。そのため、崇神天皇の時代になって祟りが恐れられ、出雲族の神であるオオモノヌシ神を三輪山の神として祀るようになったと言えるでしょう。

古事記のエピソードは日本書紀とは違いますが、いずれも天皇家と出雲族との隠れた関わりを示していると言えるのです。

古代ロマン豊富な箸墓だが、疑問だらけ

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このように、記紀には、箸墓には古代ロマンとして描かれているものの、実際には出雲族と天皇家(大王家)との黒歴史が隠されていると言えるのです。そのために、箸墓をはじめとした古墳群は三輪山の山麓に作られており、この時代に日本列島では大きな権力闘争がおこなわれたことを推測させてくれています。それはまさに、大和朝廷の基礎が築かれた時代の闇の歴史(出雲族と大王家の権力闘争)を照らし出していると言えるでしょう。同時に、新たな権力の成立の証しとして、新しい墓式として前方後円墳が築かれたと言えるのです。

箸墓は日本の天皇家の発祥にかかわっている

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奈良盆地の中央、山辺の道に近い東部にある箸墓を中心とした纏向古墳群は、古墳時代を特徴つけている前方後円墳の一番の初期に築かれた古墳です。この時代は、初代天皇(大王)になるイワレヒコ(神武天皇)が大和盆地を統一し、その子孫が出雲族との権力闘争に打ち勝った時期に当たります。記紀には、ほとんどエピソードが意図的に残されていないものの、この箸墓をめぐる古代ロマンと言えるエピソードから、その黒歴史の状況を想像できますね。

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