日本の歴史江戸時代

徳川家康を支えた「徳川四天王」とは?それぞれわかりやすく解説

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」の心意気で、忍耐を重ねた末に天下を取った戦国大名・徳川家康。そんな彼の躍進を支えた立役者が、徳川四天王と呼ばれる4人の重臣たちでした。酒井忠次(さかいただつぐ)・本多忠勝(ほんだただかつ)・榊原直政(さかきばらなおまさ)・井伊直政(いいなおまさ)というこの4人の固い忠誠心とエピソードを、ここでは解説していきたいと思います。きっと、家康が天下を取れたことに納得すると思いますよ。

徳川四天王筆頭・酒井忠次

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徳川四天王の筆頭とされる酒井忠次は、他の3人や家康よりもはるかに年長者でした。家康の苦労時代から地位を確立するまでの屋台骨となった人物です。戦に政治にと活躍した彼ですが、時に年下の榊原康政を叱りつけ、時に踊りを踊って場を和ませるなど、なくてはならない存在でした。では、まずは彼について見ていきましょう。

他の四天王よりもはるかに年長

酒井忠次は、大永7(1527)年に松平氏の譜代の家臣の家に誕生し、徳川家康の父・松平広忠に仕えました。

他の四天王である本多忠勝と榊原康政は天文17(1548)年生まれ、井伊直政は永禄4(1561)年生まれ、家康は天文11(1543)年生まれですので、忠次は家康のみならず他の四天王から見ても父親のような年代だったわけです。これが、彼が四天王の筆頭とされた所以ですね。

数多くの逸話を持つ武将

家康が武田信玄と戦って大敗した三方原の戦い(みかたがはらのたたかい)では、忠次は家康が浜松城に逃げ帰ってくると、自ら櫓に登って太鼓を打ち鳴らし、援軍がいるように見せかけて武田軍の侵攻を阻んだという逸話が残されています。

また、この翌年に武田方から家康の敗戦を暗に嘲笑するような歌が送られてきたことがあったのだそうですが、忠次はそれをさらりと書き換え、逆に武田をおとしめるようなものに変えてしまい、一同の溜飲を下げたそうです。機転が利き、教養もあった男でした。

特技は海老すくい!場を和ませる必殺技

引き続き、武田氏との間で行われた長篠の戦い(ながしののたたかい)では、武田軍の背後を急襲して勝利に貢献し、織田信長に激賞されるという功績を挙げています。

この戦いでは、武田の強さをすでに肌で感じていたせいで尻込みする兵たちを、一風変わった方法で忠次は鼓舞しました。

なんと、どじょうすくいならぬ海老すくいという踊りを披露し、皆を爆笑させて恐怖を拭い去ったというんですよ。後に北条氏政(ほうじょううじまさ)との会談の場でもこれを披露したと言われており、忠次の十八番でもあったようです。

四天王の筆頭であり、家老としてもいちばんの立場にいた忠次ですが、気取らず、ユーモアのある一面も見せていたんですね。

榊原康政を一喝し、井伊直政との間を取り持つ

武田氏を滅亡させた後、家康は武田氏の精兵を自らのもとに再編入しました。彼らは結局、井伊直政に預けられたのですが、榊原康政はそれに不満を抱き、忠次に対して「直政と刺し違えてもいい」などと訴えたのです。

すると忠次は、「馬鹿者!」と一喝し、「殿(家康)が私に相談なさったから、私が直政に預けてはと提案したのだ。もしお前が無分別なことをするなら、私がお前の妻子一族みな串刺しにしてくれるぞ!」と言い切ったのだそうですよ。

ただそう叱っただけではなく、忠次はその後に康政と直政の仲を取り持ち、2人を親友の間柄にしています。こうした潤滑剤のような役割も果たしていたというわけです。

天下無双の最強武将・本多忠勝

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本多忠勝は家康の家臣の中でも断トツの強さを誇る勇将で、その名は天下に轟くほどでした。信長にも秀吉にも称賛された武将であった彼は、生涯で57の戦に参加し、傷ひとつ負わなかったとも伝わっています。そんな彼の戦漬けの人生をご紹介しましょう。

家康のもとで無敗の勇将となる

天文17(1548)年に生まれた忠勝は、ほどなくして家康に仕えるようになりました。忠勝という名は「ただ勝つのみ」という意味を持ち、実際に彼はその通りの武将に成長していくのです。

13歳で初陣を飾った後、忠勝は破竹の快進撃を見せていきます。

信長・家康連合軍が浅井・朝倉連合軍とぶつかった姉川の戦いでは、苦戦する味方を尻目に単騎で敵陣に突入し、相手を突き崩したそうです。

また、武田氏を相手にした家康が敗走する際には殿(しんがり/最後尾)をつとめ、武田の精鋭相手に一歩も引かず、家康を守り切ったという局面が幾度もありました。

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