近くには古代の祭祀宮殿跡もあった
巻向駅周辺には、古代の祭祀宮殿跡も発見されており、この辺り周辺は古代の墓域として聖地化されていたと言われています。宮殿跡の周辺には住居跡などの遺跡は発見されておらず、あくまでも聖域として古墳群が広がっており、祭事に利用されていたと思われるのです。
したがって、一部新聞などでは邪馬台国の卑弥呼の宮跡ではないかと騒いでいますが、邪馬台国を証明するものは何もなく、卑弥呼の墓は円墳であり、明らかに違います。時代的には同時代と言えますが、邪馬台国でないのは明らかです。
近くにある弥生時代の唐子・鍵遺跡はこの当時も存在していたと思われます。しかし、当時の弥生時代の奈良盆地の住民は1万人程度と推定されており、とても邪馬台国の都があったとは考えられないのです。
しかし、この纏向古墳群の中心である箸墓については、記紀に記載があり、当時のこの辺りに何があったのかを想像させてくれます。
この箸墓をめぐる古代ロマンとその裏に隠された黒歴史を紹介していきましょう。
日本書紀の箸墓に関わるエピソード
日本書紀も古事記も第10代崇神天皇の項に箸墓にまつわるエピソードを残しています。一見古代ロマンを伺わせますが、深読みすれば大和朝廷の黒歴史を想像させるエピソードです。
ここでは、そのうち日本書紀のエピソードをご紹介しましょう。
箸墓はヤマトトトビモモソ媛のお墓
崇神天皇の大叔母に当たるヤマトトトビモモソ媛は、三輪山の神であるオオモノヌシ神の妻になった(神を祀る祭司)とされています。日本書紀では、箸墓はこのヤマトトトビモモソ媛のお墓としているのです。
物語では、この三輪山の神(オオモノヌシ神)は昼は姿を現さず、夜に通ってくるのでした。そこでモモソ媛は、三輪山の神に「いつも夜しかたずねてこないので、あなたの顔を見たことがない。ゆっくりしていって、朝にあなたの姿が見てみたい」と頼んだのです。
三輪山のオオモノヌシ神は小さな蛇だった
すると三輪山の神は、「それは当然だ。明日、私はお前の櫛箱の中に入っていよう。しかし、私の姿に驚いてはいけないよ」と答えたのです。モモソ媛は不思議に思って朝になって櫛箱を開けてみると、そこにはひものような美しい小さな蛇がいたので、ビックリして声をあげて泣き崩れてしまいます。すると人の姿に戻った三輪山の神は、「お前はこれしきのことに我慢できず、私に恥をかかせた。私が帰った後、お前も恥を見るだろう。」と言って即座に三輪山に帰ってしまったのです。
箸墓のできた過程には裏がある
それを聞いてモモソ媛は天をあおいで、後悔してその場でしゃがみこんでしまったのです。そこには立てた箸があり、その箸がモモソ媛の陰処(ホト)をついてしまい、モモソ媛は命を落としてしまいました。そこで人々は、モモソ媛を大市(現在の桜井市箸中の大市)に墓を作って埋葬したと記載されているのです。これが箸墓と言われている理由となっています。
日本書紀には、この箸墓は、昼は人が作り、夜は神が作ったと書かれ、大坂山の石を、箸墓まで人々が手渡しで箸墓まで運んだとされていました。その石垣は今も箸墓の周りを取り囲んでいるのです。しかし、日本書紀は、この箸墓は、違う民族が共同して作ったことを示唆していると言えます。
三輪山のオオモノヌシ神と大和朝廷の関係
三輪山の神であるオオモノヌシ神は、出雲王国主である大国主命(オオアナムチ)の別名であり、その神がなぜ大和の地にいるのかが問題で、それを天皇家の皇女がなぜ祀っていたかです。すなわち、倭族の神武天皇(イワレヒコ)が大和の地(奈良盆地)に入った時には、出雲と関連の深いニギハヤヒ命がすでに入っていました。イワレヒコは、戦争に負けたニギハヤヒ命からこの奈良盆地の支配権を譲られて、磐余(いわれ)の橿原で初代の大王(神武天皇)となっているのです。