幕末日本の歴史江戸時代

会津戦争とその中で戦った少年隊「白虎隊」について元予備校講師がわかりやすく解説

会津若松市の東にある飯盛山。標高314メートルと決して高い山ではありませんが、この山は悲劇の舞台として有名です。その悲劇とは少年隊である白虎隊の自刃でした。白虎隊が戦った会津戦争とはどのような戦争だったのでしょうか。今回は会津戦争と白虎隊の悲劇について元予備校講師がわかりやすく解説します。

会津戦争の背景

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会津戦争は1868年から1869年にかけて起きた戊辰戦争の一局面です。鳥羽伏見の戦いで勝利し、江戸を無血開城させた新政府軍は会津藩に兵を差し向けます。会津藩が追討を受けた理由は会津藩と新政府の主力となった薩摩・長州の間に深い遺恨があったからでした。しかし、仙台藩や米沢藩などの東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成。新政府に会津藩・庄内藩の赦免を歎願します。

会津藩と長州藩の深い遺恨

戊辰戦争からさかのぼること6年前、会津藩主松平容保は幕府の命により京都守護職に就任し京都の治安維持にあたります。このとき、会津藩の配下として志士たちをとりしまったのが新選組でした。

会津藩は幕府を支持する佐幕の立場から尊王攘夷運動を厳しく取り締まります。会津藩や新選組の取り締まりにより多くの志士たちを失った長州藩や薩摩藩は会津藩に深い恨みを持つようになりました。

特に長州藩は池田屋事件で同志を殺されただけではなく、その後の禁門の変に敗れ朝敵とされた恨みがあります。会津藩としては幕府に従い職務を果たしただけとも言えますが、一時的とはいえ京都を追われ朝敵の不名誉を負わされた長州藩の恨みは深いものがありました。

戊辰戦争の始まり

1868年1月3日、京都近郊の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍が戦闘状態に入りました。この鳥羽伏見の戦いから翌年6月の箱館戦争までの一連の戦いを戊辰戦争といいます。

初戦で新政府軍に敗れた旧幕府軍は大阪周辺で体制立て直しを図るものの、将軍慶喜が江戸に退却したことで戦意を喪失。旧幕府軍は京阪地域から全面撤退してしまいました。

鳥羽・伏見での新政府軍勝利の知らせと、官軍である新政府軍に逆らうと朝敵とされると知った諸藩は次々と降伏します。新政府軍は部隊を再編成し、一路江戸を目指しました。

1868年3月6日、静岡県の駿府城に達した新政府軍は江戸城総攻撃を決定します。江戸は今にも戦渦に巻き込まれそうになりますが、旧幕府代表の勝海舟と新政府代表の西郷隆盛が会談。江戸城の明け渡しと江戸総攻撃の中止が決定されました。そのころ、会津藩主松平容保は朝敵とされ、会津藩で謹慎の体勢をとります。

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