幕末日本の歴史江戸時代

会津戦争とその中で戦った少年隊「白虎隊」について元予備校講師がわかりやすく解説

奥羽越列藩同盟の結成

会津に戻り謹慎する松平容保に対し、新政府は討伐の矛先を向けました。討伐を命じられた仙台藩や米沢藩は新政府に対して、会津藩・庄内藩の赦免を歎願します。

その間、仙台藩や米沢藩は東北諸藩に呼びかけ白石城で会議を開催しました。白石会議では会津・庄内両藩の赦免を重ねて歎願することを決定します。しかし、新政府の奥羽鎮撫総督に任じられた九条道孝は嘆願書を却下。重ねて東北諸藩に会津出兵を命じます。

これに対し、奥羽諸藩は会津・庄内討伐軍の開山を宣言しました。奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵は奥羽諸藩に出兵を要請します。4月12日、世良修蔵が薩摩藩の大山格之助に「奥羽は皆敵」と記した密書を出しますが、その密書が仙台藩士の手にわたりました。

その文言に怒った仙台藩士姉歯武之進らは世良修蔵を暗殺してしまいます。この件がきっかけとなり奥羽越列藩同盟が結成されました。

会津戦争の経緯

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会津藩、仙台藩、米沢藩などを主力とする奥羽越列藩同盟は新政府軍と戦闘状態に入りました。奥羽越列藩同盟軍は要衝である白河城を攻撃します。奥羽越列藩同盟軍の目が白河口に注がれている隙に、新政府軍は二本松城を攻略。さらに、母成峠を攻略し会津藩の防衛ラインを突破することに成功。会津藩の敗色が濃厚となります。

白河口の戦い

1868年4月、奥羽越列藩同盟軍は福島県南部の要衝、白河小峰城を占拠しました。白河小峰城を占拠した奥羽越列藩同盟軍は城外南方の白川口に防衛部隊を展開します。

一方、新政府軍は宇都宮城の戦いに勝利し、北上しつつありました。奥羽越列藩同盟軍の白河小峰城選挙を知った新政府軍は、奪還のため兵を差し向けます。新政府軍は奥羽越列藩同盟軍の防衛ラインのスキを突き、白河小峰城を占拠しました。

城を占拠した新政府軍は列藩同盟軍よりも兵力で劣っていたため、白河小峰城に立てこもって援軍を待ちます。兵力で優勢な列藩同盟軍は白河城に総攻撃を仕掛けますが、新政府軍の防衛隊が粘り強く抵抗。このため、白河小峰城を陥落させることはできませんでした。

関東平野での戦いを制した新政府軍の板垣退助らは白河小峰城の援軍として戦場に駆け付けます。結局、列藩同盟軍は兵力の優位を生かせず、会津方面への撤退を余儀なくされました

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