幕末日本の歴史江戸時代

会津戦争とその中で戦った少年隊「白虎隊」について元予備校講師がわかりやすく解説

二本松城の戦い

一度は奪った白河小峰城を新政府軍に奪還された列藩同盟軍は近隣の二本松藩に出兵を要請します。これに応え、二本松藩は藩の主力部隊を白河小峰城に向けて出陣させました。

会津藩を主力とする列藩同盟軍は何度も白河小峰城に攻撃を仕掛けますが、守備側の抵抗のためその都度失敗に終わります。東北地方の諸藩は軍制改革が進まず、旧式の装備を採用していた点も不利でした。

新政府軍は白河小峰城が持ちこたえている間に棚倉城を制圧。そのまま北上し三春藩、守山藩を帰順させました。

このため、二本松城は新政府軍の攻撃にさらされることになります。しかし、主力部隊は白河小峰城付近に展開中で、二本松城の守備は手薄な状態でした。

二本松藩は予備兵力である少年隊まで動員しましたが攻撃を防ぐことはできません。二本松藩は少年兵18名を含む218名が戦死してしまいました。二本松城の陥落で新政府軍は会津・仙台への道を切り開きます

母成峠の戦い

二本松を制圧した新政府軍内部では、会津藩に攻め込むか、会津藩に味方する諸藩を先に攻撃するかで意見が分かれました。議論の結果、会津藩を攻撃し一気に戦争の決着をつけるべきとの意見が通ります。

土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らは2,200ほどの兵力で会津攻撃を開始しました。

会津藩は新政府軍が南西の日光口か南東の勢至堂峠の白河口、二本松城からまっすぐ若松に向かう二本松口など南方からの進行を予想。兵力を南部中心に展開します。

板垣らは会津藩の防衛ラインが手薄になっている北の母成峠に攻撃を仕掛けました。会津軍や幕府伝習隊を率いる大鳥圭介、新選組らは800の兵力で母成峠を守備します。

新政府軍は兵力や火力の優位を生かし短期決戦で峠の攻略を目指しました。会津藩は松平容保が白虎隊など予備兵力をひきいて滝沢陣屋まで出陣しますが、新政府軍の猛攻を防ぐことはできませんで。母成峠を突破した新政府軍は若松城下付近の十六橋に殺到します。

白虎隊の活動とその最期

image by PIXTA / 12679138

会津藩は防衛ラインのスキを突かれて新政府軍に会津盆地侵入を許してしまいます。白河口をはじめとする各方面に兵力を分散させていた会津藩は青少年で構成される予備部隊の白虎隊まで動員しますが戦況を逆転させることはできませんでした。白虎隊の青少年たちは若松城下での決戦に敗れ、飯森山で自刃します。

白虎隊の動員

鳥羽・伏見の戦いに敗れ、新政府軍との決戦が避けられなくなった会津藩は4つの部隊を新たに編成しました。

18歳から35歳までの武家の子弟で構成された主力部隊の朱雀隊、35歳から49歳まで構成され、国境守備を担当した青龍隊、50歳から56歳までで構成された予備部隊の玄武隊、そして、16歳、17歳の男子で構成された白虎隊の4部隊です。

白虎隊には15歳や13歳の者もいました。白虎隊の構成人数は343名です。白虎隊の装備は旧式の銃火器で新政府軍に比べてはるかに劣りました。

母成峠を突破した新政府軍が会津若松城下を目指して進撃します。経験が浅く、本来は実戦と最も縁遠いはずだった白虎隊も前線に投入され激戦の中に身を投じました。

戸ノ口原の戦い

母成峠を突破した新政府軍は急進して会津若松城下に殺到します。このとき、城下防衛の最終防衛ラインとなったのが日橋川にかかる十六橋でした。会津藩は新政府軍を食い止めるため、十六橋を落とそうとします。

ところが、十六橋は石橋で堅牢だったためなかなか落とすことができませんでした。そうこうしているうちに新政府軍が十六橋を制圧。会津若松城下への進撃路を確保します。

母成峠陥落を聞いた松平容保は白虎隊をひきいて滝沢陣屋まで出陣しました。この時、新政府軍が母成峠はおろか重要防衛地点である十六橋まで進出します。城下手前の戸ノ口原から援軍の要請が来ました。白虎隊は一番隊が容保護衛を継続。二番隊が戸ノ口原の増援として派遣されました

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