幕末日本の歴史江戸時代

会津戦争とその中で戦った少年隊「白虎隊」について元予備校講師がわかりやすく解説

白虎隊の最期

橋を奪われた会津藩は戸ノ口原に展開し新政府軍を迎え撃ちます。新政府軍は母成峠から次々と増援を派遣し、会津若松城下に迫りました。装備が貧弱でこれ以上の予備兵力がない会津藩に対し、新政府軍は装備も充実。次々と援軍を送り込んで会津軍に圧迫を加えました。

戦いは新政府軍の優位に展開し、白虎隊二番隊は壊滅的打撃を受け四散しました。白虎隊二番隊の生き残りは会津若松市近郊の飯盛山にたどり着きます。彼らは飯盛山から若松城下に火の手が上がるのを見ました。

生き残った隊士の証言から、飯盛山で少年兵たちは城下に戻るか自刃するかで激論が交わされたことがわかっています。その結果、自刃を主張した者たちは飯盛山で最期を遂げました。城下の炎上を城の陥落と勘違いしたというより、城下の火の手を見て前途に絶望したのかもしれませんね。

白虎隊一番隊と城下に戻って抵抗をつづけた二番隊の生き残りは一か月にわたって会津若松城に籠城。最終的に力尽きて降伏します

戊辰戦争後の会津藩

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1868年9月22日、会津藩は新政府軍に降伏します。1869年11月、松平容保の嫡男、容大は家督相続を許され、青森県の下北半島などを所領として与えられました。旧会津藩士の17.000人余が新領地に向かいます。新しい藩は斗南藩とよばれました。廃藩置県で斗南藩が消滅し青森県ができると、旧会津藩士の多くが青森県を去って会津に帰郷します。

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