幕末維新期の大隈重信
大隈重信は佐賀藩の上級家臣の子として生まれす。佐賀藩は藩主鍋島直正による藩政改革により強力な軍事力を持つ藩となっていました。藩命で長崎に赴いた大隈は、宣教師フルベッキのもとで佐賀藩の英語塾である「致遠館」で教頭格として指導に当たります。国際都市長崎でイギリス公使パークスを相手に交渉をした経験は、彼にとって外交キャリアをつむ絶好の機会となりました。
大隈重信の生い立ちと藩主鍋島直正の藩政改革
大隈重信は1838年に佐賀藩の上級家臣の家に生まれました。このころ、佐賀藩では藩主鍋島直正による藩政改革が進められます。直正は藩校の弘道館を整備し、優秀な人材を登用して仕事にあたらせました。
藩財政を好転させた直正は軍事力の強化に乗り出します。特に、大砲鋳造に欠かせない反射炉の建設を進め、最新鋭の大砲であるアームストロング砲を自前で作ることができるレベルまで軍事力を強化しました。
大隈は弘道館で学びますが、儒教中心の教育内容に反発し退学処分となります。大隈は1856年に設置された蘭学寮に入学しました。蘭学には向いていたようで、1861年には藩主鍋島直正にオランダの憲法について講義するまでになります。大隈は西南雄藩の一角である佐賀藩の一員として見聞を広めていきました。
長崎派遣
1865年、大隈は長崎にあった佐賀藩の英語塾「致遠館」で教頭として学生を指導することになりました。致遠館の校長は宣教師のフルベッキです。大隈は同僚の副島種臣とともにフルベッキのもとで英学を学びます。
フルベッキはオランダ生まれで、1852年にアメリカに移住した人物でした。大隈はフルベッキから欧米に関する知識を学びます。特に、新約聖書やアメリカ独立宣言などにふれたことは、大隈に大きな影響を与えたと考えられますね。
1868年、相次ぐ幕府軍の敗報を聞いた長崎奉行が長崎を脱出したあと、大隈は長崎管理を命じられます。長崎では澤宣嘉や井上馨の下で外国人関連の訴訟を扱いました。
この時、大隈がいくつかの事件を手際よく解決したのを見た井上馨が木戸孝允に大隈を推薦します。その結果、大隈は明治政府に登用され外国事務局判事となります。
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イギリス公使パークスとの交渉
幕末、諸外国の外交官の中で最も手ごわいといわれたのがイギリス公使パークスでした。明治維新の黒幕とさえ言われるパークスは剛腕で知られた人物です。
長崎時代、大隈はパークスとキリスト教徒への迫害問題で交渉したことがありました。パークスら外国公使団は迫害をやめるよう強く迫ります。大隈はパークスらと6時間にわたって交渉を続け、日本側の下した流罪の処置を認めさせました。
この交渉が評価され、大隈は中央政府に転属になります。中央での大隈の仕事はフランスの抵当に入れられていた横須賀造船所を買い戻す交渉でした。この時、大隈はパークスの仲介でオリエンタルバンクから50万両の融資を得ることに成功。横須賀造船所を買い戻すことができました。外交とお金に強さを発揮した大隈は明治政府の高官へとのし上がっていきます。
明治政府の要人として
新政府の要人となった大隈は引き続きパークスとの交渉を担当する一方、財政を担当する大蔵省の次官にあたる大蔵大輔(おおくらたゆう)となりました。その後、大蔵省のトップである大蔵卿・大蔵大臣を経験しますが政府内で伊藤博文らと対立。明治十四年の政変で政府を追われてしまいます。
参議への就任
明治政府に入った大隈は大蔵大輔に就任し財政を担当することになりました。翌年には現在の閣僚にあたる参議に就任。佐賀藩出身者としては唯一の参議となりました。この時、大隈を引き立てたのが長州藩出身の実力者、木戸孝允です。
大隈は版籍奉還や新貨条例などでも実務面で活動しました。また、明治初期の大改革である地租改正では大蔵省の責任者として積極的に動きます。さらに、大隈は富岡製糸場の建設や鉄道・電信の敷設などを急ピッチで行いました。
改革をあまりに急いだため、一時は木戸孝允や大久保利通と対立してしまいます。1874年におきた台湾問題では積極的に出兵策を推進。出兵を担当した西郷従道とともに準備にあたりました。大隈の方針に反対する木戸孝允や板垣退助が大隈を大蔵卿から罷免するよう求めますが実現しません。
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