幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

外交・財政の専門家として明治政府で活躍した「大隈重信」を元予備校講師がわかりやすく解説

第一次世界大戦中の内閣となった第二次大隈内閣

尾崎行雄の共和演説事件をきっかけとして分裂した憲政党のうち、進歩党系の議員たちは憲政本党を結成。大隈は憲政本党の総理に就任します。しかし、1900年に伊藤博文が結成した立憲政友会の勢力には及ばず、党勢はふるいませんでした。

大隈は1907年に総理を辞任、在野の活動に力を入れます。時代は明治から大正に移りました。1914年、時の内閣総理大臣山本権兵衛がジーメンス事件の責任を取って辞職すると、元老たちは後任として大隈を推薦します。

1914年4月、組閣の大命が大隈に降り第二次大隈内閣が成立しました。1914年におきた第一次世界大戦では日英同盟を理由に連合国側にたって参戦。ドイツ基地があった山東省や南洋諸島を占領します。

第二次大隈内閣で主導権を握ったのは外相の加藤高明でした。加藤は中華民国に対し二十一か条の要求をつきつけるなど強硬な外交方針を採ります。1916年、大隈は総理大臣を辞任し第二次大隈内閣は総辞職となりました。

早稲田大学の創設

少し時代をさかのぼって明治十四年の政変の翌年にあたる1882年、大隈は早稲田に私立の東京専門学校を設立しました。東京専門学校では大隈が理想としたイギリス流の政治学の講義が行われます。そのため、東京専門学校の文系学部は政治経済学部が中心となりました。ドイツ流の法学を中心にすえた東京大学とよく比較されますね。

設立当初、東京専門学校は政治経済学、法律学、英学、理学の4学部でスタートしました。政治経済学だけではなく法律でも有名で、五大法律学校の一つに数えられます。

1902年、東京専門学校は早稲田大学と改称。1907年、憲政本党総理を辞任した大隈は早稲田大学の総長となります。その後、1920年に発布された大学令で早稲田は正式に旧制大学に昇格しました。現在、早稲田大学には大隈重信の彫像と、大隈を記念して建てられた大隈講堂があります。

最後は「国民葬」で送られた大隈重信

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1921年9月、恒例になっていた大隈は体調を大きく崩しました。1922年1月22日に死去します。享年85。大隈の葬儀は日比谷公園を借り、「国民葬」の形で行われました。式には30万人が参列し、沿道には100万人の群集が集まります。単に政治家であるだけではなく、早稲田大学の創設や立憲改進党の結成など幅広く活躍した大隈ならではの大規模な葬儀といえるでしょう。

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