幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

外交・財政の専門家として明治政府で活躍した「大隈重信」を元予備校講師がわかりやすく解説

大隈財政の実施と問題点

大隈重信は明治政府が成立した直後の1869年から1880年まで大蔵省のトップに君臨しました。大隈重信が大蔵省を率いて行った財政政策を大隈財政といいます。

この間、廃藩置県や地租改正、秩禄処分など重要な財政問題を処理し日本政府の財政基盤を整えました。大隈は殖産興業政策実現のため官営工場を建設しましたが、その費用は借金と紙幣の大量発行によって賄います

1877年、西南戦争が勃発すると政府の借金は一気に膨らみました。これにより、お札の価値が下がり物価が上昇するインフレーションが発生。大隈は財政を根本から見直す必要に迫られました。

大隈は増えすぎた紙幣を処理するため、外国から多額の借金をしようとしますが、政府内部での大反対にあい計画はとん挫します。

明治十四年の政変

1880年、自由民権運動に対応するため政府は憲法制定に向けて意見調整を行っていました。憲法制定や国会開設に関して、2つの意見が対立します。

一つは大隈らが主張する国会の早期開設とイギリス流議院内閣制の導入です。これに対し、伊藤博文や井上馨、岩倉具視らはゆっくりと変革するべきとする漸進主義を主張。伊藤らは君主権が強いドイツ流の憲法を取り入れるべきと考えます。

両者の対立が続く中、開拓使官有物払下事件が発生しました。薩摩藩出身で開拓使長官だった黒田清隆が同郷の五代友厚に破格の安値で開拓使の所有物を払い下げたことが問題とされます。

伊藤らは開拓使官有物の払い下げ中止と大隈重信の参議罷免を決定。このことを明治十四年の政変といいました。大隈が罷免された理由は、開拓使関連の情報を漏らしたのが大隈だと疑われたからです。

立憲改進党の結成と二度の組閣

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参議を罷免された大隈は立憲改進党を結成。政党の力で政府に対抗しようとします。自由民権運動の激化で立憲改進党を離党した大隈は政府の要請に応じ、外務大臣として条約改正に臨みました。しかし、反対派のテロにより片足を失ってしまいます。1898年、立憲改進党系の進歩党が選挙で第一党となると、進歩党と板垣率いる自由党を合体させ憲政党を結成。日本で最初の政党内閣を樹立します。

立憲改進党の結成

明治十四年の政変で政府を追われた大隈は新党結成に向けて動き出します。1882年4月、東京で立憲改進党の結党式を開催しました。立憲改進党の総理には大隈重信、副総理に河野敏鎌が就任します。犬養毅尾崎行雄前島密らが党員として名を連ねました。

立憲改進党はイギリス流の穏健で漸進的な立憲主義を目指します。立憲改進党を支持したのが都市の知識人や実業家たちでした。特に三菱を率いる岩崎弥太郎とは密接な関係を持ちます。

1884年、自由民権運動が激しくなる中、立憲改進党内部で組織改革をめぐって意見対立が起きました。解党論も浮上する中、総理の大隈と副総理の河野が立憲改進党から脱党します。立憲改進党は集団指導体制に移行してかろうじて存続しますが、党の勢いは大きく削がれてしまいました。

大隈重信遭難事件

明治時代の大きな外交課題に不平等条約の改正問題がありました。政府は幕末に江戸幕府がアメリカなどと結んだ不平等条約の改正を目指しますが、なかなかうまくいきません。

1887年、条約改正交渉に行き詰まった井上馨は外務大臣を辞任。後任に大隈を推薦します。大隈は領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を目指して、諸外国と個別に交渉を進めました。

その結果、アメリカ・ドイツ・ロシアとは条約改正に成功します。しかし、大隈が諸外国に最高裁判所である大審院の判事に外国人を任用すると約束していたことが発覚すると国内世論は激しく反発しました。

世論はノルマントン号事件で日本人乗客を助けなかったイギリス人船長が、領事裁判で禁固3か月という軽い処罰で済まされたことを忘れていませんでした。1889年10月18日、国家主義団体玄洋社の来島恒喜が大隈に爆弾を投げつけます。大隈は一命をとりとめますが、右足を失う大けがを負いました。

憲政党の結成と隈板内閣

1890年、第一回総選挙が行われると、立憲改進党は41議席を獲得。立憲自由党に次ぐ議会第二党となりました。第二回、第三回、第四回の総選挙でも立憲改進党は第二党の座を維持します。

1896年、立憲改進党は立憲革命党など5党合同で進歩党を結成しました。大隈は役職に就きませんでしたが、事実上の指導者として進歩党を率います。進歩党は第二次松方内閣に協力。大隈は外務大臣として入閣しました。

1897年、政府と対立した進歩党は政権を離脱。1898年に板垣率いる自由党と合同し、憲政党を結成します。政権運営の見通しを失った第三次伊藤内閣は総辞職。明治政府の有力者である元老は大隈重信を総理大臣に選びます。

こうして、大隈を総理大臣、板垣を内務大臣とする日本初の政党内閣が成立しました(隈板内閣)。しかし、憲政党は共和演説事件後の文部大臣人事などをめぐって内部対立が激化。わずか4か月半で総辞職に追い込まれます。

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