鎌倉仏教とよばれるもの
飛鳥時代から奈良時代にかけて鎮護国家として仏教が取り入れられ、奈良時代には南都六宗というものができ、中国から「鑑真和上」が苦難の末に来日して戒壇という仏教の戒律を授けるシステムができました。
平安時代になると「桓武天皇」が政治に口出しをするようになったのを嫌い京都に都を移し「最澄(天台大師)」「空海(弘法大師)」を中国へ留学させて、天台宗と真言宗を作ることになったのですね。平安末期から仏教のお釈迦様の教えの力が滅びていく「末法」という時代にはいったということから、阿弥陀仏に来世をたのむ「浄土信仰」が盛んになってきたのですね。それが鎌倉時代になると変革が起ります。
こちらの記事もおすすめ
比叡山延暦寺を開き、渡唐して天台宗を修めた稀代の名僧、伝教大師最澄の生涯 – Rinto~凛と~
新しい庶民のための信仰
平安時代の仏教は、儀式や学問としてでなく貴族達の今でいうライブハウスのような娯楽のような形にもなっていたのですね。これでは仏教がすたれるという危機感と、庶民たちこそ仏教の教えで救わねばならないと思った、主に天台宗の総本山である比叡山で学んだ僧達が、今まで天皇・貴族のものだった仏教を庶民に弘めようとする動きが出てきます。それが浄土宗・浄土真宗・融通念仏宗・時宗というものなのですね。もちろん民衆をたぶらかすものとして弾圧を受けましたよ。
鎌倉時代になると貴族から政権をとった武士達は、鎌倉にこぞって寺を建立し始めました。そして禅宗(曹洞宗・臨済宗)が武士にあうということで盛んに取り入れられました。そういう中で最後に出てきたのが日蓮の日蓮宗なのですね。
日蓮の誕生から得度まで
日蓮は貞応元年(1222)2月16日安房国東条郷片海(現・千葉県鴨川市)の小湊で誕生しました。両親は色々と説がありますが、父は「貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)」母は「梅菊(うめぎく)」といわれています。貫名重忠は、現在の静岡県袋井市の人で五代前の長男が井伊氏、次男が赤佐氏、三男が貫名氏となったといいますよ。「おんな城主 直虎」などで有名な井伊家と親戚なのですね。日蓮は「漁師の子」と書き残していますが、なんらかの争いに巻き込まれて小湊に流されたといわれています。母の梅菊は守護の千葉氏の一族ともいわれていますね。幼名は善日麿とよばれていました。
善日麿から薬王丸へ
幼い時から賢いということから、地元の領主である「領家の尼」が管理している天台宗の名刹(慈覚大師円仁師が修行してお寺になった)「清澄寺」に、天福元年(1233)道善房の元に入門します。道善房はお寺のナンバー3の立場だったといわれていますよ。そこで薬王丸という名前になりました。薬王丸は勉強しているうちに、仏教はお釈迦様の教えなのに色々なお経があり、どのお経が一番正しいのかと疑問に持ちます。そして師匠や他の先輩達に聞きますが誰も答えてくれません。
そんな中で、お母さんがどうしても薬王丸に会いたくて、女性が登れる結界のあるところまでやってきました。修行の場でもある清澄山は女性の入山を禁止していたのですね。今でもそういうところがあります。ずっとそこで泣きながら座っているお母さんを見て、不憫に思って門番が「黙っていてやるから会いに行ってこい」と言ってくれるのですが「勉強の邪魔になるから帰ってもらってください」と薬王丸は言ったのですよ。まだ幼い母親が恋しい時期なのに精一杯の言葉だったのでしょうね。そのお母さんがいたという場所も残っています。
出家して蓮長となる
わからないことばかりで悩んだ日蓮は「日本第一の智者にしてほしい」と、虚空蔵菩薩に記憶力増進のための修法である「虚空蔵求聞法」を行ったといいます。その修法の満願の日に明けの明星から光がさして、虚空蔵菩薩がお坊さんの姿になって智恵の珠を渡してくれたという話がありますよ。弘法大師も四国で虚空蔵求聞法を行った時に、明けの明星から放たれた光が口の中に入ったというのですから不思議ですね。
蓮長は遊学をはじめる
まず最初に行ったのは鎌倉でした。鎌倉はほとんど天台宗のお寺が見当たりません。それは当時の天台宗総本山の延暦寺は政治的な力が強く、平安時代も朝廷とのトラブルが多かったので避けたという話がありますね。
しかし宗派(というか、宗派という概念はなかったと思いますね)関係なく色々なお寺に行って勉強していきました。「鶴岡八幡宮」で一切経を読んだという話もありますよ。鎌倉から帰る時は、法華経より真言のほうが人々の救いになるのではないかという論文を書いています。鎌倉から帰っても向学心が強い蓮長は比叡山へ修行に行くことを決意しました。
こちらの記事もおすすめ
武士たちの尊崇を集めた鶴岡八幡宮の歴史とは?~文化財と見どころもご紹介~ – Rinto~凛と~