壇ノ浦の戦いに至る背景
平安時代末期、保元の乱・平治の乱に勝利した平清盛とその一門が空前の栄華を極めていました。平清盛の妻の子である平時忠は「平氏にあらずんば人にあらず」とまで言い放ちます。繁栄を極めた平氏がなぜ転落し、安徳天皇とともに西国に落ち延びなければならなかったのでしょうか。壇ノ浦の戦いに至る背景をまとめます。
『平家物語』にうたわれた平氏の栄華
保元の乱で後白河天皇側について戦った平清盛は続く平治の乱でも勝利し太政大臣に就任するなど、権力基盤を固めました。『平家物語』では、日本全国は66の国に分かれているが、平氏は30数か国を支配し、日本の半分を支配していると述べています。
日本国内の多くの荘園はもとより、日宋貿易で蓄えた富を背景に平氏の支配は盤石でした。清盛は娘の徳子(のちの建礼門院)を高倉天皇に嫁がせ、生まれた子である安徳天皇の外戚として権力をふるいました。
清盛は内乱に勝利した武人であると同時に、藤原氏の摂関政治と同じ手法で朝廷の権力を確保。さらには日宋貿易や多数の荘園で抜群の経済力を手にして、清盛は前代未聞の平氏の繁栄を実現したのです。
強大化しすぎた清盛と後白河法皇の対立
権力を握った後も、清盛は後白河法皇(天皇は引退し、出家すると法皇とよばれた)との関係を良好にしようと努めました。蓮華王院(三十三間堂)を後白河天皇に献上したのもその一例です。
しかし、強大化しすぎた清盛の力を後白河法皇は強く警戒。法皇の側近たちが清盛排除に動きます。これが、鹿ケ谷の陰謀です。陰謀は密告によって事前に発覚。計画した法皇側近は処罰されました。
陰謀を知った清盛は激怒、1179年に軍をひきいて入京し、後白河法皇を幽閉してしまいます。こうした強引な清盛の手法は反平氏勢力を生み出す原因となりました。
1180年、後白河法皇の皇子である以仁王は反平氏を掲げて挙兵。全国各地に、平氏を討伐せよとの命令書、いわゆる以仁王の令旨を出しました。これに応じて、各地の反平氏勢力が立ち上がります。
清盛の死と平氏の都落ち
近畿地方で挙兵した以仁王は平知盛らの攻撃を受け敗死してしまいましたが、以仁王の令旨に応じた各地の反平氏派は各地で活発に動きます。清盛は反対派の一つである奈良の諸寺院を焼き払う南都焼打を行いましたが、かえって仏敵の汚名を受けてしまいました。
180年、清盛が熱病で死去すると平氏は急速に衰退します。清盛死後の平氏の混乱に付け込んだのが源義仲でした。義仲は俱利伽羅峠の戦いで勝利するとその勢いのまま入京。平氏は三種の神器を持ち、安徳天皇らとともに西国へと落ち延びました。
しかし、強引にことを進めようとする義仲は後白河法皇と対立。後白河法皇は関東を支配していた源頼朝に上洛を要請します。頼朝は弟の源範頼・源義経らを京に派遣。範頼・義経らは宇治川の戦いで源義仲を打ち破ります。こうして、日本は関東を支配する源頼朝、西国を支配する平宗盛、奥州を支配する奥州藤原氏の3勢力が並び立つ状態となりました。
瀬戸内海に進出した源義経は平氏の拠点を次々と落とし、平氏を追い詰めた
源義仲の死とそれに伴う混乱は、平氏に体勢立て直しのチャンスを与えました。1184年の正月には、平氏はかつて清盛が都を移した兵庫県の福原まで勢力を回復します。
後白河法皇は頼朝に対し平氏追討の宣旨を出しました。頼朝は範頼と義経に一の谷の平氏攻撃を命じます。正面を攻撃する範頼軍に対し、義経は少数の部下とともに平氏の軍勢の背後に回り込みました。
『平家物語』では、義経は断崖絶壁を部下とともに駆け下り、崖下の平氏軍を奇襲したとあります。背後を襲われた平氏軍は大混乱し、戦いは源氏の勝利に終わりました。
さらに、平氏のもう一つの拠点である屋島に対しても源氏軍は攻撃。義経は悪天候を突いて再び平氏を奇襲し、勝利をおさめます。一の谷と屋島で敗北した平氏は瀬戸内海の西の橋である関門海峡で最後の決戦を挑みました。
源氏の白旗と平氏の赤旗、二つの旗が海上でぶつかり合った壇ノ浦の戦いの経過
瀬戸内海各地や九州での戦いに敗れた平氏は、源氏に対して得意の船戦で最後の決戦を挑みます。関門海峡の壇ノ浦には平氏の赤旗を掲げた軍船が500艘以上もひしめいていました。これに対し、義経率いる源氏の水軍は800艘以上。両軍は潮流の激しい関門海峡で最終決戦をおこないます。
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関門海峡に陣取り義経らを待ち受ける平氏と攻め寄せる義経らの陣容
一の谷と屋島で勝利した源氏軍は、平氏の拠点がある九州攻略のため、範頼の軍を山陽道から九州へと派遣しました。範頼軍は平氏水軍に補給線を絶たれ、九州に渡る前に兵粮の欠乏に苦しみます。
頼朝は範頼の軍に兵粮を送り、戦いが可能な状態へと立て直しました。兵粮を得た範頼軍は九州へと上陸。現地の平氏方の軍勢を打ち破り平氏勢力を孤立させることに成功します。
一方、平氏は残存兵力をかき集め、関門海峡の彦島に布陣しました。安徳天皇を奉じる平氏軍は総帥である平宗盛率いるおよそ500艘の船団です。
対する、源義経は摂津の渡辺水軍や伊予の河野水軍、紀伊の熊野水軍などを味方につけます。その数、およそ800艘。両軍は壇ノ浦周辺で対陣、戦いの時を待ちます。