日本の歴史鎌倉時代

【鎌倉仏教】「日蓮」ってどんな人?その生涯をわかりやすく解説

比叡山に入った蓮長

比叡山は大きく東塔・西塔・横川という3つのエリアに分かれています。蓮長が入ったのは、清澄山で修行して清澄山を天台宗にしたという「第3世天台座主慈覚大師円仁」が開いた「横川」ということになりますね。ここはお神籤の開祖である「元三慈恵大師良源」を祀っている四季講堂(元三大師堂)もありますよ。お神籤って神社が発祥じゃないんですね。

そこで頭角をあらわしていった蓮長は、横川の中にある「定光院」をまかされることになりました。ここに12年いて関西にある各宗のお寺を回って勉強したのですね。実はここ比叡山の三魔所といわれているそうで、横川中堂から往復したことがあるのですが、死ぬ思いをするほどの山道でした(なめててヒールで行ったので)。今では琵琶湖から簡単に行けるようになっていますよ。

とにかく比叡山は横川だけでなく東塔も西塔も山あり谷ありの、まさしく千日回峰行という山を駆け回る修行がある山でした。もし行かれることがありましたら、登山できるかっこうで行ってくださいね。

現在の定光院は、比叡山の中にありながら、日蓮宗が管理運営していますよ。清澄寺が真言宗から日蓮宗に変わっていますので、このあたりは面白いですね。

法華経を弘めることを誓う

比叡山を中心に12年間修行し各宗派を遊学した蓮長は、法華経こそが最高の人々の救いの教えだと悟りました。しかし法華経を弘める人は迫害されて、親兄弟や縁者にも及ぶとお経に書いてあります。散々悩んだ末に蓮長は人々を救うためにならばと決心しました。

比叡山を去り、最初に行ったのは「伊勢神宮」です。そこで法華経を弘めることを天照太神に誓ったのですね。伊勢神宮は近くの今は廃寺になっている浄明寺というところに参籠して井戸で水垢離をしたといわれていて、井戸だけが残っていますよ。蓮長が世話になっている領家の尼の土地は、伊勢神宮に奉納されている土地だったということもあるかもしれませんね。

立教開宗から鎌倉へ

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建長5年(1253)4月28日の朝、蓮長は清澄山の旭が森に登って昇ってくる朝日に向って「南無妙法蓮華経」と唱え、名前を「日蓮」と改めて、立教開宗の第一声をあげたのでした。ちなみに日本で初日の出が一番最初に見られるのが清澄山だそうですよ。なんだか不思議な感じがしますね。

さて、比叡山から帰ってきたエリートの最初の説教が聞けると集まってきた信者たちは、期待していた阿弥陀仏の話ではなく、法華経が一番尊い教えだと言い出したのですから怒り出してしまいます。中でも熱心な念仏信者である地頭の「東条景信」から殺害されそうになりますが、師匠の道善房のはからいで逃れることができました。

鎌倉での布教活動のはじまり

鎌倉へやってきた日蓮は松葉ガ谷というところに草庵を結びます。鎌倉で勉強していた縁があってできたのか、領家の尼が実は北条一族の名越家の縁者だったという説がありますのでできたのかもしれませんね。

その年の11月に、比叡山で一緒に学んでいた友達が訪ねてきました。そしてお弟子となり弁阿闍梨日昭と名前を変えたのです。後にその縁で日昭の姉の子供である日朗も弟子になりました。自分が死んでも日昭がいるということから、安心して日蓮の布教活動は盛んになっていったのですね。有名な辻説法もその頃から行われたといわれています。実は法律で往来では人を集めてはいけないというのがあったために、していなかったという話もありますよ。信者ができてその家々を回っていたということです。

立正安国論を提出する

正嘉元年(1257)8月、鎌倉に大地震が襲いました。家屋は崩れ、当時の庶民はまだ竪穴式住居が多かったために生き埋めになった人も多かったと思いますよ。地面は割れて青白い炎があがっていたという大災害ですね。大勢の人々が亡くなり地獄絵図のようになった鎌倉を体験した日蓮は、これは仏教的になにかの啓示ではないかと思ったのですね。静岡の「岩本実相寺」にある一切経を読むために参籠したのですよ。4回目となる一切経の閲覧の時に今度は逆から読んでいったという話も残っています。

文応元年(1260)7月16日、「立正安国論」を前の執権・北条時頼に提出しました。内容は「邪法(念仏)を皆が信じているから諸天善神が日本から去ってしまっている。正しい教え(法華経)を信じて国民が心をひとつにしないと内乱が起こり、他の国から攻め込まれて日本は滅びてしまう」というものです。幕府はとがめることなく無視をしましたが、熱心な念仏信者である執権・北条長時とその父・北条重時(長時の父)は、内容もですが執権を無視したこともあり、念仏信者たちを扇動して草庵を襲い焼き討ちをしたといわれていますね。これが法難と呼ばれる最初の「松葉ガ谷法難」といわれるものですよ。

鎌倉にいられなくなった日蓮は、領家の尼とともに鎌倉・比叡山の遊学に融資をしてくれたともいわれる父の友人ともいわれている「富木常忍」の館に避難して布教をはじめたのですよ。ここでかなりの信者ができました。この人は守護をしている千葉家の執事だったそうですね。日蓮が亡くなった後も書き残した書を集めて門番を立てて守ってくれたために、日蓮の書き残した物が多いといわれていますよ。

伊豆流罪

弘長元年(1261年)に日蓮は鎌倉に戻りました。生きていたことに驚いた幕府は、また焼き討ちや襲撃などの混乱を避けるためもあり、5月12日に拘束して伊豆流罪を決めたのです。これが第2の法難の「伊豆法難」といわれるものですね。

役人は、伊豆に送る時に満潮になったら海没してしまう爼岩に放置して殺そうとしたところ、すんでのところを船守弥三郎という漁師に救われてかくまわれたという話が残っています。しばらくして領主の伊東の地頭・伊東八郎左衛門祐光が高熱を出していたところを日蓮の祈念によって快復したために信者となりましたよ。その時に海中から出現したという不思議なお釈迦様の像を受け取りました。この像を日蓮は亡くなるまで肌身離さず持っていたのですよ。

松葉ガ谷焼き討ちと伊豆流罪によって、日蓮は法華経を弘める者には法難が起きるというお経から、法華経の行者だという確信を持ったのですね。2年後に迫害の黒幕だった北条重時が亡くなったのを機に、北条時頼の手配によって弘長3年(1263)2月22日に伊豆法難から赦免されたのですよ。

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