日本の歴史鎌倉時代

【鎌倉仏教】「日蓮」ってどんな人?その生涯をわかりやすく解説

北条時頼とのエピソード

北条時頼という人は、実は日蓮が嫌いじゃなかったのかもしれませんね。(北条時頼の執事だった宿屋光則も、後に日蓮の信者となっている)

北条時頼という人は本当に名君で有名で、亡くなられた後に北条氏発祥の伊豆でも領民達が弔いたいと分骨してお墓が建てられたんですね。しかし後醍醐天皇と足利尊氏たちの倒幕によって北条氏は滅亡して、伊豆のお墓も荒れ果ててしまいまったのですよ。江戸時代になってから身延山久遠寺の住職で、徳川家康の愛妾のお万の方(紀州徳川家と水戸徳川家となる2人の息子を産んでいる)が信仰していた日遠という人がいます。日遠が伊豆を訪れた時に「ご縁のある方の墓がこんなに荒れて」と嘆いて自ら鍬を持ち、地元の人たちと一緒にお墓を建て直して、日蓮宗のお寺をつくっていますよ。

小松原法難

伊豆から帰られて翌年の文永元年(1264)の秋に、母親の梅菊さんが危篤だという知らせを受けて、日蓮は千葉に帰ります。急いでやっとのことでたどり着いた時には、お母さんは息を引き取っていたのですよ。しかし日蓮は一心に祈念します。その甲斐あってかお母さんは息を吹き返しました。この噂は瞬く間に広がって信者になる人が増えましたよ。そして文永4年(1267)に亡くなられるまでの間、千葉から離れずに布教活動をしていたのですね。

さて、そうなると清澄山で殺そうとした東条景信が面白くありません。領家の尼の土地をとろうとして画策したものの日蓮に論破されて、憎しみ培増となっていました。日蓮はその年の11月11日夕方に、鎌倉で信者になっていた天津の城主「工藤吉隆」の屋敷に、寄宿している蓮華寺から行くことになりました。襲撃の機会を狙っていた東条景信は家来を数百人(?)連れて、途中にある小松原で待ち伏せをします。日蓮は弟子達ふくめて10人ほど、迫り来る敵に、武士だった「鏡忍房」が松を引っこ抜いて応戦したのですよ。この場所は現在も松がたくさん生えているところですので、攻め側も思うように動けなかったのかもしれません。

知らせを聞いて家来達と駆けつけてきた工藤吉隆と力尽きた鏡忍房は討ち死に、弟子達も重傷を負いました。日蓮は左腕を骨折、東条景信から眉間を斬られて(数珠の親玉で防いだため致命傷にはならず)トドメを刺されそうになった時に光るモノが(鬼子母神とも)現れて東条景信が落馬したために、家来達は東条景信を抱えて去って行きましたよ。しかし追っ手から逃れて山中で一夜を過ごしました。これが3番目の「小松原法難」なのですね。

龍の口法難

文永8年(1271)、その3年前に蒙古からの使者がやってきたことから、日蓮は『立正安国論』で書いた他国からの侵略の預言が当たったことから、他宗との法論を望みますが、幕府が法論を禁じていたこともあり無視されてしまいました。ちょうどその年は干魃で雨が降らず、社会事業を通じて幕府と懇意になっていた極楽寺の「良観」に幕府が雨乞いの祈祷を命じます。しかし降ることはなく、日蓮は自分が祈祷すると挑戦し見事に雨を降らせました。極楽寺良観は面目が潰されたと怒り、幕府に手を回して日蓮を捕縛することにしたのですよ。

9月10日に尋問をしたのちに、9月12日夕刻に数百人の幕府の兵を連れて草庵を叩きつぶして日蓮に暴行して捕縛しました。そしてそのまま馬に乗せて鎌倉を引き回して「佐渡国守護の北条宣時の館へ連行して、佐渡に流罪する」と言いましたが、途中の龍の口という処刑場で処刑をするつもりでしたよ。

あわや首を斬られそうになった時に、空から光るモノが飛来して斬ろうとした太刀を折り、その光で役人達も兵士達もへたりこんでしまいました。どうしたものかと、その知らせを幕府に送った使者と、執権の北条時宗が奥さんから「子供が生まれようとしているのに、僧侶を殺すなど恐ろしい事はやめてください」と言われて、処刑の中止命令を出したのとが同時で途中ですれ違ったという場所がありますね。

日蓮は最初の話のように佐渡へと流罪と正式に決まり、弟子や信者達は投獄されたり謹慎や財産没収ということになりました。これと佐渡を含めて4つめの法難となりましたね。

佐渡島での苦難

10月10日に依智(現在の厚木市)を出発して、佐渡島に渡る船が何度も押し戻されて(今でも荒海の時は船が運休する)ようやく10月28日、佐渡に到着しました。そして山を越えて11月1日に、配所である共同墓地にあるボロボロの「塚原三昧堂」というお堂に入りました。屋根も板壁もボロボロで、食事は流人の日蓮1人前だけでついて行った日興などの弟子達の分はありません。分け合って極寒の中で題目を唱えている毎日でした。

ある日のこと、近所に住む順徳天皇が佐渡に流された時に随行した「南無阿弥陀仏」しか言わないので「阿仏房」という名前の元武士が、阿弥陀仏の悪口を言うとんでもない坊主が来たから斬ってやると夜中にやってきました。斬り殺そうとしたもののボロボロのお堂でヨレヨレになりながら固まって題目を唱えている一行を見て、毒気を抜かれた阿仏房はとりあえず話だけでも聞いてやるかということになり法論を始めます。理路整然と論破されて、阿仏房はお弟子となり、空腹で倒れそうになっている一行に奥さんと一緒に給仕を毎晩するようになり、佐渡を去っても高齢ながら何度も身延山へと行っている人ですよ。

それでも日蓮の命を狙う者はたたず、鎌倉から一緒に監視のためにやってきていた地頭の「本間重連」は、勝手に死ぬのはかまわないだろうと三昧堂に入れたものの暗殺となると責任問題にもなるので自分の近くに移転させて、狙っている者達と法論をさせたりしていますね。佐渡では日蓮は『立正安国論』と共に重要な『開目鈔』『観心本尊鈔』を執筆しています。

さて、佐渡に流罪された人で帰ってきたのは2人しかいません。ひとりは能楽の祖である世阿弥と日蓮です。世阿弥は赦免になった時には気が変になっていたというので、正気で戻って来れたのは日蓮ただひとりということになるんですね。ここで「大曼荼羅御本尊」が完成しましたよ。南無妙法蓮華経の流れる文字が、書かれている十界の代表の神仏すべてに光を与えているというデザインですね。

佐渡流罪の原因が根拠のない讒言だったことと、ふたたび蒙古からの書状が届き、これは預言どうりではないかと恐れた幕府は、文永11年(1274年)2月に日蓮の赦免を決定しました。赦免状を持った日朗が3月8日に佐渡に到着したのですよ。日蓮は3月13日に佐渡をたって、3月26日に鎌倉に到着したのでした。

 

身延山から臨終まで

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文永11年(1274)4月8日、幕府の要請を受けて龍の口で日蓮を殺そうとした平頼綱と会見しました。うってかわって丁重に「蒙古襲来の時期」を聞きます。「年内には襲来するだろう」と答えると。頼綱は「寺院を寄進するから蒙古調伏の祈禱をしてください」と依頼しますが、日蓮は「諸宗への帰依をやめて法華経で心をひとつにして祈らないとダメ」だと言ったために交渉は決裂となりましたよ。

身延山での日蓮

3回にわたる諫暁も受け入れられなかったために中国の故事にならって、日蓮は鎌倉を去ることに決めたのです。そこで甲斐国(今の山梨県南巨摩郡身延町)の地頭である信者である「波木井実長」に勧められて「身延山」に入ることにしました。遁世のかたちをしていながらも、幕府は日蓮を警戒していたために、身延山には信者のみ面会を許さなかったといいますね。そういう意味では身延山はうってつけの場所だったのでしょうね。

身延山では子弟教育をともに、色々な著述をして毎朝近くの山に登り両親の菩提を祈っていた日蓮。最初は少しの間のつもりだったと身延の日蓮研究者で元・身延山大学の上田本昌教授の話でしたが、結局体調を崩して池上に行くまでの9年間を過ごすことになったのですね。その間には2度にわたる蒙古襲来や、信者達への弾圧が行われていましたが、日蓮は身延山でじっと我慢をしていたようですね。

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