アメリカの歴史独立後

核実験の島「ビキニ環礁」人間の尊厳を無視した核実験の背景や影響をわかりやすく解説

最近、国際問題で色々と取り沙汰されているのが北朝鮮やイランの核開発問題だと思います。「小よく大を制す」のことわざ通り、弱小国が強国に対してイニシアチブを握るためには、核兵器を持つことが有効な手段だという主張もありますし、国際紛争を防ぐためには「核」の抑止力で軍事行動を抑えることができるという説もあります。しかしいずれにせよ、「核兵器を絶対に使わない」ということは言い切れませんし、独裁国家ほど核兵器の使用に関するセーフティネットが働いていないのも事実です。核兵器をここまで世界の脅威とし、大量の核の保有をもって世界の主導権を握ろうとしたアメリカの功罪ももちろんあるでしょう。そこで、核実験の負の象徴ともいえる「ビキニ環礁」とは何だったのか?そして核開発競争へ至る過程や及ぼした影響など、核兵器の惨禍を受けた日本人だからこそ考えていきたい事柄をまとめてみました。どうか最後までお付き合いください。

巨大な核実験場となったヒロシマ・ナガサキ

Atomic cloud over Nagasaki from Koyagi-jima.jpeg
By Hiromichi Matsuda (松田 弘道, ?-1969) – Мир вокруг нас через объектив, originally (The atomic bomb mushroom cloud over Nagasaki on August 9, 1945 in the Nagasaki Atomic Bomb Museum.), パブリック・ドメイン, Link

第二次世界大戦は、かつての戦争とはまったく違う様相をもった戦争でした。それは「非戦闘員の大量虐殺」が平気で行われたということ。ヨーロッパ、ロシア、中国大陸、そして日本のおいて、大戦を通じて5千万ともいわれる多くの民間人たちが戦火や空襲の犠牲となったのです。日本の敗勢が色濃くなり、戦争の行く末が決定的となった時期に原爆は投下されました。それは無辜の民間人を対象にした人体実験とも呼べるものだったといえるでしょう。

原爆投下の是非で葛藤するアメリカ

第二次大戦中、亡命した物理学者シラードをはじめとした多くの科学者たちを総動員することで、アメリカは核開発の先駆者となりました。「マンハッタン計画」と名付けられた開発計画は、莫大な予算と人員を湯水のように使い、臨界実験や爆縮実験などが繰り返され、急ピッチで爆弾化が進められていました。

そして1945年7月16日、ニューメキシコ州のアラモゴード核実験場で、人類初の核実験が行われ成功しました。巨大な火球と衝撃波は、人智がついに神を超えたものと感じられたことでしょう。そう、人類はついに「パンドラの箱」を開けてしまったのです。

 

「今、私は死神になった。世界の破壊者だ」

「マンハッタン計画」に従事していた物理学者オッペンハイマーの言葉

 

「これで我々は全員、道を踏み外してしまった」

実験責任者べインブリッジの言葉

 

しかし軍人や科学者の全員が、日本への原爆投下に賛成していたというわけではありません。中には明確に反対の意思を示した人間も多かったのです。陸軍長官スティムソン連合軍最高司令官アイゼンハワー太平洋艦隊司令長官ニミッツなどは、戦争の結果がすでに明らかになっているにも関わらず、無差別殺戮をすることはアメリカの汚名ともなり、人道的観点からいっても適当ではない。と考えていたからでした。

ところがマンハッタン計画の責任者グローブス少将の考えはまったくの逆でした。長い歳月を掛け、膨大な国家予算を使い、せっかく原爆を完成させたのに、使わなければ議会から追及を受け、その責任を問われかねない。ましてや原爆が家屋や人体に対してどのような効果があるのかどうか?検証しなければならない。と考えたのです。

なんとしてでも戦争終結前に原爆を使用させるべく、グローブスは独断専行します。広島市を重要な軍事目標だという文書を偽造し、トルーマン大統領の正式な認可すら得ないまま、勝手に原爆投下にゴーサインを出したのでした。

広島と長崎に相次いで原爆が投下される

image by PIXTA / 12201054

8月6日午前8時15分、広島市に人類最初の原子爆弾が投下されました。「リトルボーイ」と名付けられた原爆は、巨大な衝撃波と熱線で付近の家屋を薙ぎ倒し、周囲数キロにわたって壊滅的な被害をもたらしました。

熱線の直撃を免れた人間も、倒壊した家屋に閉じ込められて焼死するなど甚大な人的被害も出し、その年の12月までに亡くなった人の数は12万人ともいわれています。

トルーマン大統領は、認可すらないままに原爆投下が決行されたことを、この時初めて知ったそうです。「このような破壊行為をした責任は大統領の私にある。」

しかしそのような大統領の思いとは裏腹に、わずか半日後には長崎市に二つ目の原爆が投下されました。長崎市の全人口のうち3割の7万人が死亡し、市街地は廃墟と化しました。

トルーマン大統領が原爆投下の禁止を命じたことにより、三つ目の原爆投下は免れましたが、広島と長崎で使用された原爆によって、放射線による二次被曝などによって多くの人間が原爆症で苦しむことになったのです。

被爆者に関する資料を治療に生かすことなく持ち去ったアメリカ軍

やがて日本が無条件降伏し、本格的な被爆者に対する調査が始まりました。ABCC(原爆障害調査委員会)は広島と長崎に拠点を置き、被爆者の原爆後遺症に関する各種データを収集し、人体実験の効果を確認していたのです。あくまで検査と調査が目的のため、被爆者に対する治療は一切行われませんでした。

また原爆投下後に、京都帝国大学医学部東京帝国大学などが、被爆者に関して調査を行った膨大な資料も米軍によって持ち去られました。もちろん彼らは被爆者の治療に生かすつもりなど毛頭なく、まるで戦利品のように強奪したのです。

 

「やけどにガーゼを貼っても、明くる日はウジがたまってました。アメリカ兵が患者の資料やカルテを持ち去りました。その影響で治療が立ち遅れたと思います。」

引用元 京都新聞公式HP「軍学共同の道」より抜粋

 

被爆者資料を持ち去った米軍医アベリル・リーボウが、イエール大教授として1949年に発表した論文には、解剖した被爆者に番号が付されていました。彼は自らの功績のために、被爆者たちを利用していたといっても過言ではないでしょう。

核実験の島【ビキニ環礁】

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By United States Department of Defense (either the U.S. Army or the U.S. Navy) – Library of Congress, パブリック・ドメイン, Link

第二次世界大戦が終わっても、世界には平和は訪れませんでした。なぜなら、アメリカとソ連という二大大国による冷戦時代が幕を開けたからです。核開発競争代理戦争に明け暮れた時代の犠牲となったのは、平和だったはずの南の島でした。

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