安全対策を無視した核実験【クロスロード作戦】
太平洋に浮かぶマーシャル諸島のひとつ「ビキニ環礁」では、1946~1958年にかけて23回にも及ぶ核実験が行われました。アメリカは信託統治領だった太平洋の島々以外にも、ネバダなどに核実験場を持ち、強力な核兵器開発のための実験を繰り返していたのです。
1946年7月より、クロスロード作戦と名付けられた一連の各種核実験が行われました。B-29による高高度核爆弾投下実験である「エイブル」、水中核実験である「ベーカー」によって構成され、多くの艦艇が実験材料として供されました。その中には日本の戦艦「長門」も含まれていました。
ところが、肝心の被曝に対する安全対策は完全に無視されていたといえるでしょう。多くの兵士たちが参加していた放射線安全偵察隊に対して、「2週間で500~600ミリシーベルト」という被曝の基準を設けたのです。ちなみに現在、日本人の年間許容被曝限度は法律で1ミリシーベルトとなっていますから、その安全基準がいかに危険なものであるかがよくわかりますね。
実は、このクロスロード作戦の放射線安全対策責任者はウォーレン海軍大佐でした。彼はマンハッタン計画にも参画しており、日本政府が原爆を国際法違反だとする批判や、裏付けとなる報道を意識して、「広島、長崎に投下された原爆は、重大もしくは危険な程度の放射能はなかった」と否定した人物だったのです。
そのようないい加減な責任者の管理の下で、多くの若い兵士たちが被曝していきました。外部被曝のみを計測していたため、内部被曝に関してはまったく考慮に入れられていませんでした。あまりに被曝者が多く放射能汚染もひどかったため、3つ目の実験「チャーリー」は中止されることに。
第五福竜丸と住民たちを被曝させた水爆実験【ブラボーショット】
By United States Department of Energy, パブリック・ドメイン, Link
1954年3月、キャッスル作戦の一環として行われたのが、初の水爆実験であるブラボーショットでした。当事者のアメリカは大成功だと宣伝しましたが、実際には大失敗ともいえるものでした。核出力の判断を見誤ったため、予想以上に爆発力が大きく、最悪の被曝事故を引き起こしたのです。
マーシャル諸島の住民、米兵、そして付近でマグロ漁をしていた第五福竜丸を含めた漁船の乗組員が被曝しました。この核実験責任者だったストローズは、米軍側の過失を認めるどころか「警戒地域への不注意にもとづく侵入の結果起こった事故」だと断じ、「マーシャル諸島の住民236人は、私には丈夫で幸福そうに思えた」と、まるで被曝はなかったかのような発言をしました。
また、第五福竜丸の久保山無線長が被曝のために死去すると、アメリカ側は一切責任を認めず、「輸血による肝炎が死因」だと報道しました。そういったアメリカ政府の隠蔽体質は日本国内で批判を呼び、反核運動が盛り上がるきっかけとなりました。
今もなお島へ帰ることができない島民たち
ビキニ環礁において、強制的に島外に移住させられた人たちは170人ほどいて、無人島のロンゲリック環礁、そして基地のあるクェゼリン環礁から無人島キリ島へと1ヶ月の間に転々とさせられました。ロンゲリック環礁では水と食料が不足し、飢餓に苦しめられたといいます。
1968~1970年にかけて帰島が許可されたものの、残留放射能の影響は侮りがたく、多くが健康不良を訴えて再び島を離れることになりました。
これまでに何度もアメリカ政府に対して「核実験被害に伴う訴訟」が行われていますが、アメリカ政府に対して法的拘束力はあるものの、制裁制度を持たない実効性の乏しいものであるため、アメリカ政府が認定額の全額支払いを行う見込みは立っていないのが実情です。
そのような形で元島民たちの足元を見てきたアメリカ政府は、額面通りの支払いをするよりも、被害への「謝罪」の代わりに核実験協力への「感謝」が表明され、「賠償金代わりのお礼金」を限定的に支払うことを選択しています。元島民の人々は口を揃えて言うそうですね。「謝りもしないで、カネで解決しようとしている」と。
ビキニ環礁の「今」
現在のビキニ環礁は、かつて恐ろしい核実験があったのを忘れてしまうくらいに美しい場所です。2010年には「ビキニ環礁核実験場」として世界遺産に認定され、人類の負の歴史として刻まれています。
放射能汚染は、現在では短期間の滞在では問題のないレベルにまで下がっており、多くの沈没した艦艇が眠る「大人気のダイビングスポット」となっているのですね。戦艦「長門」も水面下50メートルに沈んでいますので、その様子を見ることができます。
ビキニ環礁へのアクセスも良好というわけではありません。日本からグアムまで飛び、そこからマジュロ国際空港まで向かいます。ビザなしでマーシャル諸島共和国入国審査を受けられますので、その場で無料ビザがもらえるというわけ。
マジュロからビキニ環礁空港まで、飛行機で飛ぶことになりますが、運航するマーシャル諸島航空は保有機がわずか1機しかないため、便数が極端に少ないです。飛行機が故障でもすれば、しばらく帰れないことは覚悟の上で訪れてくださいね。
さらにビキニ環礁空港からビキニ島まではモーターボートで30分掛かりますので、そのアクセスの悪さから、行きたいけどなかなか行けない「ダイビングの聖地」だということがよくわかりますね。
日本は核武装ができるの?
ここからは少し余談になりますが、核実験についてのお話をさせて頂いたついでに、「日本が核武装することの是非」について書いてみたいと思います。唯一の被爆国という道義的なことを省いたうえで、あくまで客観的に述べていきますね。
これまでに何度も検討されてきた核武装論
よくネット上などでは、「日本が核武装することを議論することがいけないことなのか?」と、やたらと鼻息が荒い人たちも見受けられますが、実はこれまでに日本国内でも核武装について真剣に議論と検討が重ねられてきました。ちょっと時系列で見ていきますね。
※1960年代
安全保障調査会が、日本の核兵器生産潜在能力について分析した「日本の安全保障―1970年への展望」が1968年に発行され、日本に限定的な核兵器開発能力があることを認めつつも、その結論部では核武装に反対しています。
また、内閣調査室で「日本の核政策に関する基礎的研究」という報告書がまとめられますが、そこでも核武装を否定していますね。
※1970年代
防衛庁長官だった中曽根康弘が、「開発費用2000億円、5年以内に開発可能かも知れないが、実験場を確保できないために実現不可能。」と結論付けています。ちなみに現在の貨幣価値に直せば約2兆円ですね。
※1980年代
防衛研修所(現在の防衛研究所)が、初歩的核武装から戦略核武装までの可能性や予算についての検討を行いました。結果は核武装の否定でした。
「運搬手段、指揮命令系統、支援、補給、国政及び自治体レベルの関与まで必要な巨大な核兵器運用ネットワークを構築できないから。」というのがその理由。
※1990年代
北朝鮮核危機を受け、防衛庁内局、統幕、防衛研究所のチームが「大量破壊兵器の拡散問題について」という報告書をまとめました。結果はこれも後に述べますが、核武装の否定でした。
このように、日本の防衛に関するスペシャリストである防衛庁(今の防衛省)や研究所が核武装を全面的に否定している現状であることがわかりますね。