日本の首都東京はどんな歴史を歩んでいったのか?江戸から東京の歴史を解説!
- 元々は寒村でした【家康が本拠地にするまでの江戸】
- 古代と中世における江戸
- 室町時代と戦国時代初期の江戸
- 家康による江戸改造プロジェクト
- 徳川家康の江戸城入城
- 家康による本拠地選び
- 家康による江戸改造計画
- 利根川を大きく変えよ!物流が大きく変わった瞬間
- 江戸が大きく変わった明暦の大火
- 江戸の5分の3が焼けた明暦の大火
- 明暦の大火による江戸改造計画
- 江戸の文化の誕生
- 将軍のお膝元から日本の首都へ【江戸から東京】
- 江戸の町を守り抜け!江戸無血開城
- 東京への首都移転
- 東京府として
- 関東大震災、そして戦争
- 関東大震災の発生
- 太平洋戦争による東京大空襲
- 戦争からの復興とメガロポリス東京
- 日本の大都市東京
この記事の目次
元々は寒村でした【家康が本拠地にするまでの江戸】
今では約930万人が住んでいる世界屈指のメガロポリス東京。しかし、この東京があった土地はかつて江戸と呼ばれ、さらに徳川家康が小田原征伐後にこの地を拠点にするまでは寒村として知られている土地でもありました。まずはそんな江戸の先史について見ていきましょう。
古代と中世における江戸
今東京都が置かれている地域は昔は武蔵国と呼ばれていました。
古代では武蔵国の一宮や国分寺が置かれ、武蔵国の国の中心をなしていたそうです。ちなみに、国分寺が置かれた場所が今の国分寺市の名前の由来となっているのですよ。
そして、平安時代後期になると武蔵国は関東に進出してきた源氏の勢力圏内に入り、この地を支配していた江戸氏が東京23区内で勢力を築き上げるようになったのです。これが江戸が初めて現れた瞬間でした。
室町時代と戦国時代初期の江戸
こうして、江戸氏がこの地域を支配するようになりましたが、時代が下って室町時代に入ると、この地域は扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌という人が支配するようになります。太田道灌はこの江戸の地に江戸城を築き上げ、この城を武蔵国の海側の中心地としたようですが、志半ばで暗殺。代わりに小田原城を本拠地としていた後北条氏が武蔵国を手に入れ、江戸城は後北条氏のものとなります。
そして1590年、江戸の歴史が大きく変わる出来事が起こったのでした。
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家康による江戸改造プロジェクト
江戸城周辺は街道は一応整備されたものの、現代とは違い海が入り組んでいる不便な土地でした。しかし、徳川家康はこの江戸の地を本拠地として江戸を日本の中心地にまで押し上げるようになります。次はそんな江戸が本拠地となり、地形が整備される様子を見ていきましょう。
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徳川家康の江戸城入城
1590年、豊臣秀吉の天下統一事業の総仕上げとして20万の大群で小田原城を包囲。後北条氏を降伏させて無事に天下統一を成し遂げました。しかし、この天下に少しだけ不満を持っていた人物が、その人こそ豊臣秀吉に変わっての地に天下を取ることになる徳川家康だったのです。
徳川家康は1585年に豊臣秀吉と小牧長久手の戦いで争ったのち、秀吉に降ったのですが、それでも家康は豊臣秀吉の家臣の中では一番勢力を持っている大名であり、その影響力は抜群なものでした。秀吉としてみたらなんとかしてこの家康の勢いを止めなければならない。そこで秀吉が切り出したのが、家康の領地の大幅転封でした。
家康は元々駿河(今の静岡県)を始め、三河・遠江・信濃・甲斐の約130万石を治める大名でしたが、この大幅な転封によって、旧後北条氏の領地250万石に変わってしまったのです。
一見石高が大幅に上がったから大丈夫かと思いますが、家康からしたら自分が慣れ親しんだ東海地方からいきなり関東地方に行けと言われても無茶でしかありません。
さらに、当時関東地方は後北条氏の善政もあり、未だに後北条氏を懐かしんでいる人も多数いたため、この地を収めるのは非常に難しいものでした。
しかし、家康はこの要求をあっさり快諾して関東に向かいます。家康はこの関東の地で我慢する選択をし、関東へと向かったのです。
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家康による本拠地選び
さて、こうして家康は関東地方に移ることになったのですが、土地が変わったということは本拠地を選ばなければならなくなりました。
関東地方には後北条氏がいろいろ城を建てて置いてくれたので、城に困ることはありませんでした。さらに、関東地方には2つ本拠地としてふさわしい場所があったのです。その2つの地こそが小田原と鎌倉でした。
小田原とは後北条氏の本拠地として、100年間栄えた関東地方屈指の城下町であり、さらには小田原征伐自体も小田原城に向かって総攻撃を行う一歩手前で後北条氏が降伏したため、城自体は無傷でした。そのため、上杉謙信や武田信玄が落とせなかった要塞小田原城をそのまま使えるという最大級のメリットがあったのです。
一方の鎌倉ですが、この地にはかつて鎌倉幕府が置かれた通り、武士にとっては一番大切な家柄である源氏のメッカとも言ってもいいほど重要な場所であり、さらには家康自身も源氏の子孫と名乗り、源頼朝に憧れるなどもし鎌倉に本拠地を置いたとしても不思議ではない地でもあったのでした。でも、結局家康が本拠地としたのは江戸。なんでこの2つの候補地はボツとなったのでしょうか?それは次の欄にて説明したいと思います。
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