日本の首都東京はどんな歴史を歩んでいったのか?江戸から東京の歴史を解説!
家康による江戸改造計画
家康が本拠地として選んだ江戸の地はこの頃になると太田道灌が城を築いてから以上の寂れ具合をなしており、さらには海が城きわきわまで押し寄せて人間としたら一番必要な物資である真水の確保にも困るというほどだったのです。
しかし、家康はここで一計を案じます。東京には当時小山がいくつかありました。その中でも特に大きい神田山と呼ばれる山を海の埋め立てに使えば土地拡張をやりやすくできると考え付いたのです。この作戦は大当たり。山を削って海に埋め立てて土地を平らにすることによってかつてでこぼこしていた江戸の町は江戸城を中心に屋敷を立てることができるスペースを確保したのでした。
さらに、真水が使えない問題も、家康が井の頭池から神田上水を通して水を引いたことによって万事解決。さらに時代が下ると玉川上水なども整備されて江戸の水事情も大きく改善されたのでした。
さらに、1603年に家康が江戸にで幕府を開くとこの江戸の街の栄華は確実なものとなり、全国の大名が江戸の街を工事するようになって1609年にはすでに15万人が住んでいる一大都市に膨れ上がったのでした。
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利根川を大きく変えよ!物流が大きく変わった瞬間
こうして土地問題と水問題は解決されましたが、さらに江戸には問題点がありました。
それが川の氾濫だったのです。家康は家臣に命じて当時江戸湾に注いでいた利根川を堰き止めてどんどん東に河口をずらしていったのでした。こうして利根川の氾濫を江戸に持ち込むことを無くし、さらには江戸近郊の運河も形成。道三堀を開削によって江戸の物流は一気に安定して商業都市としての基礎も作られました。
江戸が大きく変わった明暦の大火
さて、こうして江戸の街はみるみるうちに変貌を遂げ、新しい時代を迎えましたがそれも束の間。1657年に明暦の大火と呼ばれるとんでもない火事が起こったことによって一気に江戸の街は家康の頃とは違う新しい街へと変わっていくことになるのです。次は明暦の大火とそれに伴う江戸の変化についてみていきましょう。
江戸の5分の3が焼けた明暦の大火
こうして順調に成長していき、どんどん人口が増えていった江戸ですが、この都市は火事にものすごく弱いという欠点がありました。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉もあるように火事は江戸を代表する事象の一つだったのです。
そんな江戸での火事なのですが、その中でも特に規模が大きく最終的には江戸のほとんどを焼いてしまうのが1653年に起こった明暦の大火でした。
この火事は本妙寺というところから出火し、そこから風に流されて江戸城方面まで一面火の海とかしてしまいます。
この結果最低でも10万人は亡くなったと言われて、さらに江戸の5分の3の区域が消失。また江戸のシンボルでもあった江戸城の天守閣もがこの火事によって消失してしまったのです。
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明暦の大火による江戸改造計画
こうして江戸の大半が無くなったのですが、そうなると行わなければならないのが都市の復興計画。この当時幕府を動かしていたのは第4代将軍徳川家綱の補佐をしていた保科正之という人でした。
保科正之は江戸の町をもう2度と火の海にしないために火事が起こっても延焼しないために広小路という大きな通りを建設。今でも上野とかに地名として名残がありますが、さらに家のほとんどが木造建築だったことを受けて火事が起こっても燃えにくい土蔵造りの家を作ることを奨励しました。
また、この明暦の大火によって江戸の町の区割りも改正。日本橋通りを中心として計画されたように街を配備していき、またこの頃から隅田川以東にも市街地が拡大されました。
このように、明暦の大火は江戸を火の海にしたものの、ここからの江戸や東京の街を大きく変える転換点にもなったのですね。
江戸の文化の誕生
江戸時代以前には文化の中心といえば京都や大阪などの上方中心でしたが、江戸時代も後期に差し掛かってくると江戸中心とした文化が花開くようになっていきます。
例えば一番有名といってもいいのが1624年に江戸に移った歌舞伎ではないでしょうか?
江戸時代では中村勘三郎を始め色々な歌舞伎役者が活躍していきましたが、さらにそれを後押ししたのが浮世絵。東洲斎写楽、歌川広重、そして葛飾北斎などが特に有名ですね。
このように江戸時代では様々な文化が花開き、日本の中心にふさわしいような状態が作られていったのでした。
将軍のお膝元から日本の首都へ【江戸から東京】
さて、江戸時代を通じて江戸の町は大きく発展を遂げることになるのですが、時代が下って幕末の頃になると江戸の町は一回消滅寸前の危機まで陥ってしまうことになります。
江戸後期には100万人がいた世界屈指の大都市江戸。次はそんな江戸が東京になるまでの過程を見ていきましょう。
江戸の町を守り抜け!江戸無血開城
時代は下って幕末の1860年代。この頃になると幕府の権威もだんだん失墜していき、挙げ句の果てには長州藩にも負けてしまう体たらくとなってしまいます。
当時の将軍徳川慶喜はこのままでは幕府は武力によって崩壊すると考えたのか、1867年に大政奉還を実施。265年続いた江戸幕府は終焉を迎えました。しかし、倒幕派の中心に立っていた薩摩藩と長州藩はこれだけでは止まることはありません。大政奉還が行われた翌年の1868年には鳥羽伏見の戦いを決起として戊辰戦争が勃発。薩摩藩と長州藩を中心とした新政府軍は幕府があった江戸に向かって進軍を行うようになります。
「新政府軍が江戸を攻撃しようとしている」こんな情報流されたら江戸の住民は大パニックに陥いることは確実。さらに攻撃を受けてしまえば江戸の町は崩壊するのは火を見るよりも明らかでした。
徳川慶喜はこれだけは日本のためにならないと考え、さらに幕府の家臣勝海舟は江戸の攻撃が行われ始める前になんとしてでも新政府軍と交渉するべきだと主張。新政府軍の総大将である西郷隆盛と会談を重ねて江戸攻撃を中止にするように願い出ます。ここで運が良かったのは西郷隆盛の実家である薩摩藩の藩主の娘が徳川家に嫁いでいたことでしょう。(天璋院篤姫)
西郷隆盛は江戸を総攻撃する2日前の土壇場で攻撃を中止。徳川慶喜は江戸城から退去して奇跡とも呼べる江戸無血開城を成し遂げたのでした。
こうして江戸の町は破壊されることを回避し、日本の首都としての機能を充実させることになるのです。
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