満州国とはそもそもなんなのか?
満州国とは1932年に日本が国際的な承認を得ずに勝手に作った今の中華人民共和国の東北部に位置している国家です。元首は清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀。『ラストエンペラー』の主人公としても有名ですね。
満州国は日本の傀儡国として強い影響下に置かれ、太平洋戦争でも日本側として参戦するのですが、1945年にソ連が日ソ中立条約を突如破って満州国に侵攻したことで崩壊しました。
さて、ざっくりと満州国の歴史を説明してきましたが、次はそんな満州国がどのようにして誕生して行ったのかを見ていきましょう。
満州国成立までのヒストリー
19世紀末。満州国があった中国東北部の土地は清朝という巨大な国家が治めていました。しかし、1848年のアヘン戦争以降清朝が欧米列強から侵攻を受けると満州はその上に位置しており、当時一年中凍らない港を欲していたロシアの侵攻を受けアイグン条約にて外満州という地域をロシアに割譲。さらに1894年の日清戦争において清朝が日本に負けると遼東半島と呼ばれる満州の一番端にある半島を日本に割譲。しかし、これは三国干渉によって遼東半島はロシアのものとなりました。
でも、臥薪嘗胆を掲げて日本はロシアと戦争に突入。かろうじて日本は日露戦争に勝利して山海関より東の地を獲得。この地を山海関の東という意味として関東州と名付けました。そして、日露戦争の講和条約において日本はロシアが満州の地に作っていた鉄道も獲得。南満州鉄道という半官半民の会社を関東州の中心都市である大連に設立して、満州の影響力を強めていきました。
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中国の利権競争
こうして日本は満州地域の獲得に成功しましたが、当時中国は世界で有数の人口を擁する大国。欧米列強の国々もこの中国の利権を奪って自国の発展の後押しをしたいと考えていたのです。
特に、アメリカは南北戦争やそのいざこざもあって中国の進出に出遅れたことをかなり悔やんでおり、日本やイギリスに対して門戸解放という中国の利権を世界に解放しようという『アメリカにも甘い蜜を吸わせろ!』という意味でもある主張を発表。特に日本が手に入れた利権である満州という地はアメリカにとっては魅力的な地だったようで日本に対して満州経営の提携を依頼します。しかし、日本は日露戦争において莫大な損害を出してようやく掴み取った希望の地だったのでこの要求を拒否。日米関係はこのことによって急速に冷え切るようになるのでした。
第一次世界大戦と満州
こうして日本は満州の利権を確固たるものとしましたが、1912年に入ると中国の地では辛亥革命と呼ばれる革命が起こり清朝が崩壊。代わりに南京を首都とする中華民国が成立しました。しかし、この中華民国という国は影響力がかなり弱く、各地に独立した軍が暴れまわるという始末。満州においても清朝の影響力が弱くなったことによって日本の独自行動がどんどん多くなっていきました。さらに1914年に入ると日本は第一次世界大戦に参戦。当時同盟関係を結んでいたイギリスの依頼を受けて山東半島のドイツの租借地となっていた膠州湾を攻撃。この地を占領してさらに中国に対して二十一か条の要求を行なって満州の地を利権をさらに増やすように命令を出します。
こうして日露戦争以来日本が持っていた満州の利権が中国との間で確定してこれから先日本と中国との関係は悪化していくようになるのでした。
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満蒙問題【満蒙は日本の生命線】
第一次世界大戦の終結後、満州地域どころか日本が危機感を抱くようになります。日露戦争以降国内情勢が悪くなっていたロシアにおいて第一次世界大戦中に革命が勃発。いわゆるロシア革命が起きたことによって1922年にロシアの地にてソビエト社会主義共和国連邦が成立してしまいました。
実は、この頃の日本という国がトップが天皇ということもあって君主の存在を否定している共産主義という考えは大嫌い。さらに、ソ連が旧ロシア帝国が結んだ条約を全て破棄したためこれまで条約によって保証されていた日本の満州の利権が危うくなってしまいました。そのため日本は全く関係ないチェコ軍の救助を名目にシベリアに出兵を行うほどの強硬手段に打って出ます。
しかし、このシベリア出兵は失敗。そのため日本はソ連に接地している満州への防衛ラインをこの頃から築くようになり、満州から取れる大量の鉱山資源や共産主義の防波堤の意義があることからいつしかこの満州の地は『満蒙は日本の生命線』という風に呼ばれるようになり日本が決して手放すことができなくなるほどの重要拠点となっていったのでした。
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