日本の満州への侵攻
こうして1920年代から日本は満州の利権をより手に入れるために当時満州の地を治めていた奉天軍閥のリーダーである張作霖に対して影響力を強めていき、さらに張作霖自身が反抗的な態度をとるようになると関東州を治めていた関東軍は1928年に彼を爆殺。この地を利権をさらに強めていきました。
さらに、張作霖の息子である張学良が当時の中国国民党のリーダーであり、北伐という中国大陸の統一を行なっていた蒋介石に接近すると関東州はついに1931年9月18日に柳条湖事件を引き起こし、これを理由に関東軍は満州一帯を占領。国際的な非難を受けながらこの地に満州国という日本の傀儡国を成立させてついに満州国が誕生したのでした。
コラムその1【満州に進出した日本の事情】
ここまで見てきて日本は満州一帯の進出に固執していましたが、実はこれには満州の鉱山資源の確保や共産主義の防波堤の構築だけではなく、日本中に起きていたとある事情が関係していました。当時世界では世界恐慌をはじめとする大不景気に突入しており、日本においても昭和恐慌という一大不景気が巻き起こっていました。そのため日本の農村部では貧困にあえぐ農民が多発。人口は不景気をよそに拡大していったこともあり、日本政府はこの状況をなんとかしなければいけないと対策を考えなくてはなりませんでした。そして日本政府が思いついたのが移民だったのです。
しかし、当時世界では日本を敵視している考えが強く1924年にアメリカにおいて排日移民法が提出させると移民の代表格であるアメリカへの移民が出来なくなってしまいました。そのため日本は自国の強い影響下に置いてある満州への移民を推奨するようになったのでした。
満州国の設立と国連脱退
さて、満州事変によって日本は独断で満州国を建てましたが、これによって日本は国際社会からひんしゅくを買うようになってしまい、孤立してしまいます。この当時イギリスは満州国にリットン卿をリーダーとしたリットン調査団を派遣。満州事変は日本の国際法を無視した独断行動と判断して、日本のこれまでの満州の権益は考慮しつつも、満州国を認めない方針をとりました。しかし、日本は強気です。日本は国際連盟の撤退勧告案が42対1で可決されると直ちに日本は国際連盟を脱退。満州の権益を守ろうとして駄々をこねた結果国際社会から孤立した瞬間でした。
しかし日本は諦めません。日本は翌年の1934年に満州国を帝国にすることを発表。清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(康徳帝)を皇帝に担ぎ出して、満州国を経営していくのでした。
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