日本の歴史昭和

日本の希望で作られた傀儡国「満州国」どんな国だった?実態をわかりやすく解説

コラムその2【名指揮者の裏に満州国あり】

満州国にはたくさんの日本人がやってきましたが、その中の1人に小澤開作という人物がいました。この人は元々東京で歯科医をやっていたのですが、ひょんなことから満州国の組織である満州国共和会の創立メンバーとして活動したのです。その縁もあってか、開作と関東軍の幹部とは仲が良かったのですが、実はその息子である小澤征爾の征爾は満州事変を起こした張本人である板垣征四郎と石原莞爾の名前をひとつづつとったもの。

今でも小澤征爾は日本を代表する指揮者の1人に数えられていますが、その名前の裏には満州国がひっそりと隠れていたのですね。

満州国の終焉

image by PIXTA / 16132179

満州国は日本の希望として、傀儡として建国されましたが、その夢は1941年から始まった太平洋戦争によって崩れ去り、その危機は満州国にも迫っていました。

次は満州国はどのようにして滅んでいったのかを見ていきましょう。

日本の劣勢による不安

満州国が成立してから5年後の1937年。日本は満州だけでは飽き足らず盧溝橋事件をきっかけとして中国に侵攻。いわゆる日中戦争を起こして日本は泥沼の戦争に突入していきました。

さらに、日本は1941年に入るとアメリカとも開戦。中国方面の戦争も終わっていないにもかかわらず世界最強の国であるアメリカに喧嘩を売った日本が到底叶うはずもなく、ミッドウェー海戦に日本が完敗すると日本の島々が次々とアメリカに占領されていき、いつのまにか日本は降伏秒読みの状況まで陥っていました。

しかし、満州国の場合に限ると当時日本がソ連と不可侵条約を結んでいたこともあってか戦地から離れており、特に変わったことはありませんでした。

しかし、1945年にヤルタ会談が行われると満州国の運命は大きく変わってしまうのです。

ソ連の満州国侵攻

1945年6月、日本の降伏が近づいていた時、政府はソ連に講和の斡旋をしてもらおうと交渉しますが、この当時アメリカとイギリスとの間でヤルタ会談という日本の降伏後ある程度の権益をソ連に譲るという内容の会談を行なっていたためソ連は拒否。

挙げ句の果てには8月8日になんと不可侵条約をいきなり破棄して満州国に攻め入りました。

実はこの当時、満州国を守っていた関東軍はほとんどが南方戦線に出払っており、満州国はガラガラ。一方のソ連は5月にドイツを降伏させてさらにはアメリカからも支持を取り付けたことによって準備満タン。どっちが勝つかなんて誰が見ても火を見るよりも明らかでした。

満州国皇帝の溥儀は首都新京からなんとか脱出したものの、満州国はソ連によって占領。8月15日に日本が無条件降伏を受け入れたことを受けて溥儀は2日後の8月17日に退位を宣言。満州国は13年の歴史に幕を閉じました。

その後、満州国があった地域はソ連の管轄下に置かれたのち国共内戦に勝利した中華人民共和国に返還。今では3つの省が旧満州国に置かれ今に至っています。

満州国は日本の希望であり戦争の発端であった

image by PIXTA / 7625471

満州国という国は日本が世界恐慌で立ち直っていなかった時に生まれた一筋の光であり、希望でした。その通り、日本は国際連盟から脱退しようが、国際的に批判されようが満州国を手放さず、そして挙げ句の果てには日中戦争、そして太平洋戦争へと突っ走っていくようになったのです。

満州国、それは日本が希望として求めたものと同時に日本を戦争へと引きずり込んだ悪魔の国でもあったのかもしれませんね。

1 2 3 4
Share: