アメリカ軍による沖縄占領とアメリカによる統治
1945年3月に始まった沖縄での日本軍の組織的抵抗は3か月以上に及び、多くの住民が犠牲となりました。終戦後、アメリカ軍は沖縄各地を接収し基地を建設します。その一方、アメリカ軍は琉球政府を設立して日本とは切り離して沖縄を統治しようとしました。しかし、沖縄の人々の中にはアメリカ軍の支配に対する反感が強まり、本土復帰運動が活発化します。
沖縄戦の敗北
1945年3月、アメリカ軍は沖縄本島の西にある慶良間列島に上陸。4月には沖縄本島にも上陸し、沖縄戦が本格的に始まりました。日本軍沖縄守備隊は主力を沖縄本島南部に集結させ、アメリカ軍に抵抗します。
沖縄守備隊は不必要な突出を可能な限り避け、防御に徹したためアメリカ軍にも多くの死傷者が出ました。しかし、物量に勝るアメリカ軍・イギリス軍の猛校の前に、日本軍の前線はどんどん南に押し下げられます。6月23日、沖縄守備隊司令の牛島満中将が自決。これにより沖縄での日本軍の組織的抵抗は終わります。
沖縄戦には多くの県民が動員されました。県内の学校に通う男子生徒は鉄血勤皇隊に組織され、多くの戦死者を出します。女子学生は看護要員などとして動員されました。特に、ひめゆりの塔がある場所にあったガマ(天然の洞窟)で医療活動を行っていた教師と学生37名は脱出寸前に攻撃され命を落とします。沖縄戦は多くの県民の犠牲を伴った戦いでした。
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アメリカによる沖縄統治と琉球政府の樹立
1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して降伏します。北緯30度以南の南西諸島が日本から切り離され、アメリカ軍の統治に入りました。
1951年、日本は連合国とサンフランシスコ平和条約を締結し独立を回復します。一方、沖縄では1952年に琉球政府が創設されました。琉球政府のトップである行政主席はアメリカによって任命されます。琉球政府の末期には住民の直接投票で行政主席が選出されました。
琉球ではアメリカ同様、三権分立の政治制度が導入されますが、アメリカ政府は琉球政府の決定を破棄する権限を持っていたため、琉球政府の主権は制限されたものとなります。住民の投票で選ばれる立法院の議員たちはアメリカの意に反し、しばしば日本復帰決議を採択。沖縄返還の原動力の一つとなりました。
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冷戦の激化とアメリカ軍基地の建設
1940年代後半、世界はアメリカとソ連が対立する冷戦の時代に突入します。ソ連がアメリカと同じく核兵器を保有するようになり、世界各地でアメリカとソ連の勢力争いが激化しました。
東アジアでは中華人民共和国が成立。ソ連率いる社会主義勢力の勢いがまします。1950年、北朝鮮軍が韓国領へ進軍したことで朝鮮戦争が始まりました。緊迫する東アジア情勢に対応する拠点としてアメリカが活用したのが沖縄です。
アメリカ軍は沖縄各地の土地を強制的に収容し、基地を建設します。1956年、アメリカ議会がアメリカ軍による沖縄での軍用地政策を承認したことをきっかけに、アメリカ軍基地建設に反対する「島ぐるみ闘争」が激化。沖縄の本土復帰を求める運動が高まりをみせました。
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本土復帰を求める人々の願いと復帰運動の高まり
アメリカは沖縄統治の基本を軍事優先とします。琉球政府のトップである行政主席はアメリカによる任命制であり、琉球の立法院が制定した法律はあくまでもアメリカ本国の法律に反しない内容のみ認められました。
裁判でも、アメリカ軍が関与やアメリカの当地に影響が出る内容のものは琉球の裁判所ではなくアメリカ直轄の米国民政府裁判所に管轄が移されます。また、アメリカに対して批判的な人物は渡航を拒否。アメリカを批判する出版物は発行禁止となるなど、徹底的に検閲されます。
こうした、アメリカによる軍事優先の統治に対し沖縄住民は不満を募らせました。沖縄の人々は、アメリカの軍事優先の支配体制に対し強い不満を持ち、日本本土への復帰を強く願うようになります。また、沖縄各地で大規模な衝突も発生。アメリカ軍は基地機能の維持に危機感を持ちました。
沖縄が日本に復帰した沖縄返還協定
沖縄での本土復帰運動の高まりを背景に、日米両政府は沖縄の返還について協議を開始します。沖縄の返還は1969年の日米共同声明で正式決定され1971年、日本とアメリカは沖縄返還協定を締結し1972年に沖縄が本土復帰することとなりました。しかし、沖縄返還後も広大なアメリカ軍基地は残されました。