ドイツとの大祖国戦争
1930年代後半、ソビエトを敵視するイギリスなどはナチス・ドイツに宥和的な政策をとっていました。ヒトラーの言いなりになる英仏に不信感を抱いたスターリンは、ヒトラーに接近。独ソ不可侵条約を締結します。
ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまるとソビエト連邦はドイツとの密約に基づき東からポーランドに侵攻。さらに、バルト三国の併合やフィンランドとの戦争も引き起こします。
一方ドイツは、フランスを降伏させるとイギリス上陸を狙いますが、イギリスの必死の抵抗により上陸を断念。矛先を東に向けようとします。1941年、ヒトラーは突如として独ソ不可侵条約を破棄。軍をソビエト連邦に向けました。独ソ戦の始まりです。
不意を突かれたソビエト軍は西部領土の多くを占領されますが踏みとどまります。ドイツ軍はソビエト軍の防衛線を突破すべくスターリングラードの戦いを起こしますが大敗。ソビエトは反撃に転じ、ドイツ領へと侵攻しました。この一連の戦争をロシアでは大祖国戦争といいます。
ヤルタ会談と冷戦のはじまり
スターリングラードの敗北以後、ドイツ軍は後退を重ねました。1943年にはイタリアが降伏。1944年にはノルマンディー上陸作戦の成功でアメリカ・イギリス軍がヨーロッパ大陸に姿を現します。ドイツの敗色濃厚となる中、1945年2月、ヤルタ会談が開かれました。
会談に参加したのはアメリカのローズヴェルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリンです。会議ではドイツを米・英・仏・ソの四カ国で分割占領すること、ポーランドで自由選挙を行うこと、ソ連の対日参戦などが決められました。
その後、第二次世界大戦はドイツ・日本の降伏で幕を閉じます。戦後の世界はアメリカとソビエト連邦が世界を二分して争う冷戦の時代へと移行しました。アメリカもソビエト連邦も核兵器という切り札を持っていたため、うかつに戦うことができず、対立の中でも共存の道を模索していきます。
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スターリン死後のソビエト連邦の政治
1953年、24年間にわたってソビエト連邦を支配した独裁者スターリンが死去。首相のマレンコフを中心とした集団指導体制へと移行します。1956年、首相に就任したブルガーニンのもと、ソビエト共産党第一書記となっていたフルシチョフはスターリン批判を展開。フルシチョフの失脚後、ブレジネフ、ゴルバチョフなどの指導者が出ますがソビエトの衰退は止めようがありませんでした。
フルシチョフ時代
1953年、スターリンが死去するとソビエト連邦は集団指導体制に移行します。1956年、ソ連共産党第20回大会で、フルシチョフは平和共存路線への転換を表明。さらに、それまで絶対的存在だったスターリンを名指しで批判しました。
このころ、ソ連の科学技術はアメリカを脅かすまでに成長しています。人工衛星スプートニクの打ち上げや大陸間弾道弾の実験成功などはアメリカにプレッシャーをかけるのに十分な成果でした。この成果を背景に、フルシチョフはアメリカを訪問。アイゼンハウアー大統領と会談します。
これにより冷戦の緩和が進むことが期待されましたが、アメリカの無人偵察機がソ連領内で撃墜された事件により再び緊張化しました。さらに、1962年には革命で社会主義政権ができたキューバをめぐって米ソが対立。キューバ危機の発生は核戦争の危機が高めました。フルシチョフは核戦争回避のためアメリカに妥協しますが、このことが反対派に批判され1964年に失脚します。