ソビエト連邦ロシア

世界の半分を影響下に置いた「ソビエト連邦」をわかりやすく解説

ブレジネフ時代

フルシチョフの失脚後にソ連の指導者となったのがブレジネフでした。ブレジネフが第一書記として政権を担ったのは18年間。これは、スターリンに次ぐ長さです。ブレジネフは西側諸国との緊張緩和(デタント)を推し進め、アメリカとの核軍縮を実行しました。

他方、ソ連の影響下にある東欧諸国に対しては「ブレジネフ=ドクトリン」で臨みます。社会主義陣営全体の利益のためなら、各国の主権は制限されてもやむを得ないという考え方でした。この考え方に基づき、東側諸国が社会主義を脅かしかねない改革を実行しようとした場合、ソ連は軍事介入してでも阻止します。

実際、チェコスロヴァキでおきた「プラハの春」はブレジネフ政権の軍事介入で押しつぶされました。1979年、ブレジネフ政権はアフガニスタンの親ソ政権を支援するため軍事介入。ソ連のアフガニスタン侵攻が始まりました。ソ連指導部は短期決戦をもくろみましたがイスラム原理主義勢力のゲリラは屈せず、紛争は長期化。西側諸国はアフガニスタン侵攻に反発し、ソ連と西側諸国の関係は再び悪化します。

ゴルバチョフ時代

1985年、ソ連共産党書記長に就任したのがゴルバチョフです。ゴルバチョフは国内政治ではペレストロイカの推進や情報公開(グラスノスチ)の実行を、外交では新思考外交を推し進めました。

ペレストロイカではソ連経済の停滞を立て直すため市場経済の導入を目指しました。一方、グラスノスチのきっかけはチェルノブイリ原発事故です。事故発生当初、情報が最高指導者であるゴルバチョフのもとにすぐには届かなかったほど秘密主義が蔓延していたからでした。グラスノスチが進むにつれ過去の歴史の再評価が行われ、ソ連に対する批判が強まります。

また、外交面ではブレジネフ=ドクトリンをやめ、制限主権論を放棄。このことが、のちの東欧革命の引き金になりました。さらに、アメリカのブッシュ大統領とマルタで会談し冷戦を終結させます。

ゴルバチョフの動きに反発したのが保守派です。1991年、バルト三国の独立宣言で危機感を強めた保守派はクーデタをおこしゴルバチョフを監禁しました。このクーデタはエリツィンらによって鎮圧されますが、ゴルバチョフは事実上失脚。ソビエト連邦も消滅しました。

ソビエト連邦は崩壊してもロシアは今も世界の大国

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東西冷戦の一方の雄として君臨したソビエト連邦。社会主義の壮大な実験ともいわれ、つねに強い力を誇示し続けた大国も経済的な行きづまりを打開できず崩壊してしまいました。ロシアの経済的混乱はその後も続き、2000年に就任したプーチン政権によってようやく安定。かつてほどの力はないとはいえ、ロシアは今も国際政治で強い影響力を持っています。

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