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5分でわかるロシアの歴史!極寒の大地で育まれた巨大国家の成り立ちを解説

ロシアの歴史というと、ロシア革命やソビエト連邦崩壊などについては何となく知っているが、そもそもロシアはいつごろからあるのか、古い歴史についてはよく知らない、という方も多いのではないでしょうか。あんな大きな国ですから、いつの間にかそこにあった、なんてことはあり得ません。いつ頃から、どんな成り立ちでできたのか、ちょっと興味がありますよね。そこで今回は、大国ロシアの歴史をいくつかの時代に分けて、全体を駆け足で追いかけてみたいと思います。

こんなことがあったのか!巨大国家・ロシアがたどった歴史とは

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総面積およそ1708万平方キロメートル、総人口およそ1億4350万人、11の時間帯に分かれる東西に長い広大な面積を持ち、国民の8割近くを占めるロシア民族の他、タタールやウクライナ、バシキールなど180以上もの少数民族が暮らすロシア。現在は、80を超える州や共和国などから構成される連邦共和制国家となっています。そんなロシア、いつ頃からどんな歴史をたどってきたのでしょう。一口に言い表せるものではありませんが、今回はとにかく一気に、5つの時代に分割して解説します。

キエフ・ルーシ:西部一帯に東スラヴ人が居住し始める

ロシアの歴史の始まりは、9世紀ごろだったと考えられています。

当時は、主に現在のロシアの東側、東欧と隣接する一帯が歴史の中心となっていました。

領土の大半を深いツンドラの森が覆う、極寒地帯・ロシア。人々がまず移り住んだのが、現在、ウクライナやベラルーシといった国々がある、黒海の北側部分の地域でした。

謎多きの移動民族・ゲルマン民族たちが東側へ移動した後、この一帯に東スラヴ民族と呼ばれる人々が暮らし始めます。

肥沃な土地が広がる黒海周辺は、様々な地域から渡ってきた遊牧民たちが腰を落ち着けるにふさわしい場所だったのです。

9世紀半ば、ノルマン人のリューリクなる人物が「ルーシ(ルス)」と呼ばれる民族を率いて南下し、ロシア北西部にあるノヴゴロドという地域を制圧。周辺地域にもじわじわ侵攻し、領土を広げていきます。

現在のロシア北西地域一帯は、次第に、リューリク率いるルース族にちなんで「ルース」と呼ばれるようになりました。これが現在の「ロシア」という国名の語源になっていると考えられています。

リューリクの子孫たちはさらに領地を広げ、現在のウクライナの首都にあたるキエフも制圧。キエフを中心としたキエフ公国を形成していきます。

リューリクの一族はもともとノルマン人でしたが、時代が進むにつれスラヴ系民族と同化し、スラヴ語を操る大国へ。10世紀後半には、東ローマ帝国からキリスト教が伝わり、ルーシに東欧の文化が入ってくるようになりました。

タタールのくびき:モンゴル帝国勢力からの脱却

12世紀頃までの間に、ルーシの勢力は東西かなり広範囲に拡大したものと考えられています。

しかしその後、国内に内紛が続き、一時期、いくつかの国に分割した統治が行われていました。

13世紀に入ると、情勢は一変します。

東側から強大な力を持つ大国が押し寄せてきたのです。

その名もモンゴル帝国。初代皇帝チンギス・ハンの時代に、既にルーシが統治する一帯まで侵攻を始めていたモンゴルは、あっという間に中央アジアを制圧していきます。

モンゴル軍の勢いは止まりません。ルーシを制圧した後、さらにポーランドやハンガリーなど東欧地域にまで侵攻。ルーシのほぼ全領土も、モンゴル帝国の支配下に入ります。

チンギス・ハンの孫にあたるバトゥは、強大な武力を持って黒海沿岸に広がるキプチャク草原一帯にキプチャク・ハン国を設立。ルーシはキプチャク・ハンの支配を受け、モンゴル軍の勢力に屈しながら長い時を過ごすこととなります。

このようなモンゴル支配は1480年まで、200年以上にわたって続きました。このような時代を「タタールのくびき(軛)」と呼びます。くびきとは、馬や牛の首につける道具のこと。モンゴルに押さえつけられていた時代を、道具を付けられ引かれる家畜たちに例え、そう表現しています。

中世から近代:モスクワ大公国から大国家ロシアへ

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強大なモンゴルの支配下でもがくルーシたち。しかしそんな中にも、モンゴルとうまく関係を維持しつつ、キプチャク・ハンと支配下から逃れようとする者たちも存在していました。モスクワ公国です。

モスクワは、今でこそ世界屈指の大都市ですが、キエフが中心だったこの時代はまだ、小都市のひとつに過ぎませんでした。この地を統治していたイヴァン1世は、キプチャク・ハン国に取り入ることでじわじわと力をつけ、モンゴルに歯向かうのではなくルーシ内の他の国を制圧していきます。

15世紀に入ると、キプチャク・ハン国の力が弱体化。大きくなりすぎたモンゴル帝国にも陰りが見え始めます。それに乗じて、モスクワ公国はさらに力をつけ、モスクワ大公国と呼ばれるまでに成長。その頃の君主・イヴァン3世は1480年、キプチャク・ハン国からの独立を果たします。

さらに、モスクワ大公国はばらばらになっていたルーシをまとめ、ロシアの統一も達成。ここに、広大な領土を持つロシア国家の基礎が誕生します。

イヴァン3世は東ローマ帝国の皇帝の血をひく娘を妃に迎え、体制を強化。ロシア語で皇帝を意味する「ツァーリ」という称号も、この頃初めて用いられたといわれています。

16世紀半ばごろには、黒海・カスピ海沿岸の国々を次々と滅ぼし、さらなる領地拡大を目指して東側への侵攻も開始。この頃から、ルーシは「ロシア」と呼ばれるようになったようです。

国内では議会が整備され、中央集権体制が整っていきます。

イヴァン3世の孫にあたるイヴァン4世は、バルト海の覇権を争ってポーランドやスウェーデンなどヨーロッパの国々と20年以上もの長きにわたり戦いますが、この戦いには敗北。ロシアはバルト海進出を果たすことができませんでした。

帝国時代:ロマノフ朝の成立と女帝の誕生

16世紀後半、イヴァン4世の息子であるフョードル1世は後継者を残さずこの世を去ってしまいます。これにより、長年続いたリューリク子孫による支配が途絶えてしまうのです。

この後、ロシアは天災なども重なって急激に弱体化していきます。

そこに、リューリク系の後釜におさまろうとする者たちの争いなども加わり、各地で反乱勃発。世にいうロシアの大動乱の始まりです。

皇帝不在のロシアの情勢に乗じて、ポーランドやスウェーデンなどの国々が国内に侵攻。ロシアは周辺地域との争いと国内の反乱で疲弊し、ますますやせ細ってしまうのです。

この窮地に、ロシア国民が立ち上がります。国民軍を結成し、17世紀初頭、ポーランド軍を追い払うことに成功。ロシアは再び静寂を取り戻します。

何とか外国の脅威を振り払うことはできましたが、このままではどうにもなりません。そこで1613年、議会はロシアの大貴族であったロマノフ家のミハエル・ロマノフをツァーリに選出します。ロマノフ朝の始まりです。

17世紀の終盤に即位したピョートル大帝の時代に、ロシアはバルト海沿岸地域の獲得に乗り出します。再び勢いを増したロシア。国力が増し、近代化が進みますが、それは貴族たちの争いを呼ぶことにもなりました。

ピョートル大帝がなくなった後、ロシアはツァーリの継承問題でたびたび混乱が続きます。

まず、ピョートル大帝が生前、後継者を決めていなかったため、皇后のエカチェリーナがロシア初の女帝に。退位後は孫のピョートル2世が即位。その後も、女帝や幼い子供、赤ん坊などが次々と皇帝の座に就きます。

もちろん、幼い子供に皇帝は務まりません。当時は女性が指導者になることも珍しかったため、女帝や幼帝の場合は摂政役が必要となります。

こんな状況では、国民に対する政治がおろそかになりがち。皇帝を取り巻く貴族たちは自分の足固めに夢中になり、ロシア国内に不穏な空気が漂い始めます。

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