ヨーロッパの歴史ロシア

ユーラシア大陸を横断する世界最長の「シベリア鉄道」歴史や現在の様子を元予備校講師がわかりやすく解説

世界最大の領土を誇るロシア連邦。その領土を東西に貫く一本の鉄道があります。その名はシベリア鉄道。シベリア鉄道はロシアの首都モスクワからバイカル湖岸のイルクーツク経由でハバロフスク、ウラジオストクへと続く長大な鉄道です。ロシアを横断し、ヨーロッパとアジアをつなぐシベリア鉄道はロシア帝国時代につくられました。今回はシベリア鉄道の歴史と沿線の主要都市について元予備校講師がわかりやすく解説します。

19世紀のロシア帝国

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シベリア鉄道の建設する案は19世紀中ごろには既にありました。ロシア帝国首都のサンクトペテルブルクとモスクワを結ぶ鉄道が完成した後、東方のシベリアと帝国中枢部を結ぶ鉄道の必要性が認識されていたからです。このころ、ロシア帝国は皇帝による専制政治が行われ、南下政策の名のもとにバルカン半島や東アジアに盛んに進出していました。シベリア鉄道が建設された19世紀のロシア帝国についてまとめます。

皇帝専制とそれに対する不満

19世紀のロシアは皇帝によって支配される国でした。皇帝、ツァーリが支配するといういみでツァーリズムといいます。1856年、クリミア戦争に敗北するとロシア皇帝アレクサンドル2世は国内の改革に乗り出しました。

1861年、遅れた社会制度の象徴である農奴を解放する農奴解放令が出されます。同時に軍隊の近代化も行われました。また、アレクサンドル2世は国内産業の育成を熱心に行い、ロシアの近代化を図ります。

しかし、上からの改革は不十分であるとして反発した知識人たちはナロードニキ運動を起こして下からの民主化を目指しますが失敗しました。1863年、ポーランドで反乱が起きるとアレクサンドル2世は力で弾圧。反発した人々は1881年にアレクサンドル2世を暗殺してしまいました。

バルカン方面への南下政策

19世紀にロシアが最も力を入れていたのが南下政策です。広大な国土を持ちながら、高緯度に位置するロシアには一年を通じて使用できる港があまりありません。そこで、ロシアはバルカン半島やトルコに進出し、通年で使える港を得ようとしたのです。

ところが、ロシアの南下はバルカン半島に勢力を持つオーストリア=ハンガリー帝国や地中海を通じて植民地インドとの交通路を確保していたイギリスにとって歓迎できる事態ではありません。そこで、ロシアが南下を試みるたびにイギリスやオーストリアが阻止することが繰り返されました。

1853年のクリミア戦争、1877年の露土戦争とロシアは再三南下を試みますがうまくいきませんでした。ロシアはバルカン方面での動きをいったん止め、東アジアで南下を目指します。そうなると、軍隊を素早く移動させるためにシベリア鉄道を建設すべきとの意見が強まりました。

 

ロシアの東アジア進出

ロシアの東アジア進出は17世紀までさかのぼることができます。皇帝ピョートル1世は清の康熙帝との間でネルチンスク条約を結び露清間の国境を定めました。この国境線を大きく南に押し下げたのが19世紀の東シベリア総督ムラヴィヨフです。

ムラヴィヨフは弱体化した清王朝に迫ってアイグン条約を結びました。この結果、黒竜江の左岸を獲得し沿海州をロシアと清の共同管理地とします。さらに、アロー戦争で苦しむ清王朝に対しイギリスやフランスとの講和を仲介。見返りとして沿海州をロシア領土としました。

ロシアの領土は太平洋岸に達します。沿海州の中心都市となったのがシベリア鉄道の終点となるウラジオストクです。東に延びた国土をコントロールするためにも、軍隊を早く展開するためにもシベリア鉄道建設は必要不可欠となっていきました。

シベリア鉄道建設と日露戦争

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1891年、シベリア鉄道の建設が開始されました。この鉄道が完成すればロシア帝国は東アジアに素早く大軍を展開することができます。シベリア鉄道の起工式に参加する途中で日本に来たロシア皇太子ニコライは大津で暴漢に襲われました。その後、日ロ関係は急速に悪化し日露戦争に発展します。

シベリア鉄道の敷設開始

1891年、皇帝アレクサンドル3世はシベリア鉄道の敷設を決断します。鉄道建設の資金は同盟関係にあったフランスから調達しました。シベリア鉄道の建設は東と西の両端から開始されます。

最初に建設されたのはウラジオストクからハバロフスクに至る路線。この路線をウスリー鉄道といいます。西側ではウラル川やオビ川を越えるための鉄橋が建設されました。1898年には鉄路はイルクーツクに達します。

1901年、シベリア鉄道はバイカル湖沿岸部分を除いてほぼ完成しました。全線が開通するのは日露戦争中の1904年になります。シベリア鉄道の建設によって巨大化したのがノボシビルスクでした。逆に、それまでシベリアでも大きな町だったトムスクは鉄道沿線から外れることで繁栄の機会を失います。

皇太子ニコライに大きな傷を与えた大津事件

1891年5月11日、ロシア皇太子ニコライは日本を訪問していました。訪問中のニコライが滋賀県大津を通過中、警備の警察官だった津田三蔵が突然、皇太子ニコライに切りつけます。

このとき、ロシア軍艦が神戸に停泊中だったこともあり日本政府はロシアを刺激しないよう慎重に対応しました。ニコライ負傷の知らせは直ちに東京の明治天皇のもとにもたらされます。

翌日、明治天皇はニコライを見舞うために関西に向かいました。京都御所で一泊した後、明治天皇は皇太子ニコライの宿所に赴き見舞います。

ニコライは本国政府からの指示もあって東京訪問を中止しウラジオストクに向かいました。ニコライの旅の目的はウラジオストクでのシベリア鉄道起工式に参列するためだったからです。

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