信長にも秀吉にも絶賛された
絶体絶命の家康を何度も救い、戦場では無双の働きを見せた忠勝に対し、織田信長や豊臣秀吉は称賛の言葉を惜しみませんでした。
信長は「花も実も兼ね備えた武将だ」と言い、秀吉は後に「東国一の勇士」、「天下無双」と絶賛しています。もちろん、家康も彼を高く評価し、「まことに我が家の良将だ!」と称えているんですよ。
秀吉の場合は、敵方となった時でも忠勝のすごさを認めていたようです。
小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)で家康と秀吉が対決した際、家康が苦戦しているとの報せを受けた留守役の忠勝は、わずかな手勢を率いて駆け付け、秀吉の大軍と対峙しました。
この時彼は、たったひとりで両軍の間を流れる川に馬で乗り入れ、堂々と馬の口を洗うなど、大胆不敵な態度を見せ、秀吉の進軍を阻んだのです。
戦後、秀吉にそれとなく引き抜きを打診された忠勝ですが、丁重に辞退し、家康への忠義を優先させています。
57の戦に参加して無傷
家康のもとで関ヶ原の戦いに参加したのが、忠勝にとっての最後の戦いとなりました。
この時でさえも彼は長さ約6mにもなる愛槍・蜻蛉切(とんぼきり)を操り、多くの敵を撃ち取っています。生涯、彼が参加した戦は57に及びますが、なんとかすり傷さえ負わなかったと伝わっているんですよ。
その一方で、戦の際にはいつも大きな数珠を肩から下げていた忠勝。これには、自分が倒した敵を弔うという意味があったのだそうです。
無敵の勇将でありながら、家康への揺らがぬ忠義と敵への慈悲を持ち合わせた忠勝。彼こそ戦国最強の武将だと言われることがよくありますが、本当にその通りだと思います。
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臆さぬ物言いが爽快だった榊原康政
榊原康政もまた、家康に少年時代から仕え、人生のすべてを捧げた忠臣でした。彼の魅力は、武将としての能力だけでなく、誰にでもきっぱりとモノを言えるところ。それは家康だけではなく、天下人となった豊臣秀吉に対しても変わりませんでした。それでは、彼のひととなりをたっぷりご紹介しましょう。
小姓の頃から家康に仕え、忠義心を育む
幼い頃から聡明だったという康政は、13歳で家康の小姓となりました。本多忠勝とは同い年であり、親友だったといいます。
家康の人質時代を共に過ごした彼は、酒井忠次や本多忠勝同様、三河一向一揆においても家康への忠義を貫き、決して裏切ることはありませんでした。そして、家康にとっての節目となる戦にはすべて参加し、常にそばで主を支え続けたのです。
そんな康政は、武将個人としての力量は、本多忠勝や後にご紹介する井伊直政に比べれば、多少は劣りました。しかし彼には武将として大切な「隊」を指揮する力があったため、戦場にあっては徳川四天王として大きな存在感を見せつけることになったのです。