日本の歴史江戸時代

徳川家康を支えた「徳川四天王」とは?それぞれわかりやすく解説

目上に対しても言うことは言う!

しかし、康政の魅力は、主に対してでもはっきりと言うことは言うという点に尽きると思います。

家康の息子・信康は勇猛でしたが、時に粗暴な一面を見せることがあったそうです。それを注意した康政に対し、信康が弓を構えて今にも射かけそうになったことがありました。

この時、康政は動ずることなく、「あなたのために言っているのです。私を殺せば、父上はお怒りになりますし、何よりあなたのためになりませんぞ」と諭しました。これで信康は我に返り、反省したそうですよ。

 

また、豊臣秀吉と家康が敵対した際には、「秀吉は信長公の家臣だったくせに、その三男を殺し、今度は二男に弓を引いた。そんな反逆者に天罰が下らないワケがない!」と、達筆な字であちこちに書き記したというんです。当然、秀吉は激怒しました。

その後、家康と秀吉の和睦が成立すると、秀吉は康政と面会し、「お前を一目見たいと思っていたが、なんとまあ忠臣だな!」と笑ったと伝わっています。

家康が相手でも臆さない

関ヶ原の戦いでは、康政は家康の息子・秀忠に付き従っていました。しかし秀忠は進軍が遅れ、肝心の関ヶ原本戦に遅刻してしまったのです。

家康は激怒し、秀忠に会おうともしませんでした。すると康政が進み出て、家康にきっぱりと言ったのです。

「遅れるという使者を送りましたが、それも途中の洪水によって遅くなってしまいました。そういう事情もございましたのに、それまで秀忠様の過ちとするのは、いくら殿でも、思慮のなさにもほどがございますぞ!」

さすがの家康も、「たしかに…」と考えを改め、秀忠を許し、秀忠は康政に深く感謝したということでした。

 

後世、榊原家は何度も断絶や不祥事による改易の危機がありました。しかし、康政の功績が偉大だったということで、存続することができたのです。康政の毅然とした態度が、子孫を救ったということですね。

四天王最年少にしていちばんの猛将・井伊直政

image by PIXTA / 702507

井伊直政は、他の四天王の面々とは年齢差があり、最も若い武将です。家康以上の激動の幼少期を生き抜き、家康に仕えてからは戦場に政治にと大活躍しました。厳しすぎる部分もありましたが、それはすべて家康を支えるため。家康に拾われ、家康のために生きた直政について、ご紹介します。

お家の滅亡から復活

直政が生まれた井伊家は、彼の祖父や父が今川氏に殺されてしまったため、一度は滅亡の憂き目に遭っています。この時、幼い直政は今川の追っ手を逃れて身を隠していました。

そんな彼を、鷹狩りから帰る途中の徳川家康に引き合わせたのが、彼の養母でもある井伊直虎(いいなおとら)たちでした。家康は直政の立派な出で立ちに目を留め、彼が絶えかけた井伊家の跡継ぎだと知ると、すぐさま小姓として召し抱えたのです。まさに、運命のような出会いでした。

家康の寵愛を受け、赤備えを率いる武将となる

実は、直政は幼い頃から眉目秀麗な美少年だったと伝わっています。家康は直政を寵愛し、常にそばに置いていました。このために元服が遅くなったとまで言われているんですよ。この間にも、直政は使者として北条氏との間に講和を成立させるなど、元服前から非凡な才能を発揮していました。

そして、武田氏が滅亡したした後、家康は武田の精兵たちを直政に与える決断をします。真っ赤な軍装がシンボルだったこの兵たちは、直政に率いられ、やがて「井伊の赤備え(あかぞなえ)」として戦場で敵を震え上がらせることになるんですよ。

誰よりも傷を負って家康に尽くした

戦場での直政は、猛将という呼び名がまさにふさわしい戦いぶりを見せ、「井伊の赤鬼」と呼ばれました。本多忠勝がほぼ無傷だったのに対し、直政はいつも傷だらけだったそうです。

直政は家康の譜代の家臣というわけではありませんでしたが、彼の活躍により、家康は直政にたくさんの領地を与えて功労に報いました。しかし、そのことを良く思わない家臣たちもいたのです。

すると、家康は直政の体に刻まれた傷跡を指さしながら、「これはあの戦場で負ったものだ」とひとつひとつ語り出し、不満を持っていた家臣たちに対して「こんなに傷を負って、大きな手柄を立てた者を、私は直政以外に知らぬ。だからこそ大きな領地を与えるのを、わかってくれまいか」と言いました。さすがに、家臣たちももはや反論することはなかったそうですよ。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: