関ヶ原の戦いの最大の功労者
関ヶ原の戦いでは、直政はまず敵へ寝返り工作をしかけ、多くの武将を家康方の東軍に通じさせました。その一方で戦場でも活躍し、部下が追い付けないほどひとり馬を走らせ、敵を撃ち取ろうと駆け回ったそうです。
この時に討たれて傷を負ってしまいましたが、戦後は負傷の身をおして戦後処理に当たります。彼の取り成しによって領地を奪われずに済んだ武将たちは、深く感謝したそうですよ。
ただ、この時の傷がもとで直政は病に倒れ、関ヶ原の戦いからわずか2年後に42歳の若さで亡くなってしまいました。
自分に厳しく、他人に厳しく…すべて家康のため
自分に厳しかった直政は家臣にも厳しく、手討ちにすることもあったため、とても恐れられました。
しかしそれが家康のためであることは、家康自身もよくわかっていたようで、「あいつは口数が少ないが、大事なところで的確に意見を言ってくれる。それに、私が間違っていたら、他の者がいないところでそっと正してくれるのだ。だからこそ、私は何事もまずあいつに相談するのだ」と言っています。
家康のあつい信頼を得た直政。井伊家は江戸幕府の重鎮となり、後に井伊直弼(いいなおすけ)など重要ポストをつとめる逸材を輩出していく家となっていくのです。
徳川四天王なくして江戸幕府はなかった
4人それぞれが人並み外れた才能を持った武将だった徳川四天王。そして彼らはみな、家康に対する固い忠義を持ち合わせていました。家康がどんな苦境に陥ろうとも、命を投げ出す覚悟で支え続けた彼らがいたからこそ、家康は長い雌伏の時を経て、天下人の座を掴みとることができたのだと思います。家康の栄光の影に徳川四天王あり。覚えておいていただけると幸いです。
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