ヨーロッパの歴史

人間性を尊重した文化活動「ルネサンス」とは?わかりやすく解説

イタリア諸国の繁栄

活発になった地中海貿易(東方貿易)はイタリア諸国に莫大な富をもたらしました。海運により力をつけたのがヴェネツィアとジェノヴァの2つの共和国。十字軍の時代、この二つの都市国家は争いつつも地中海貿易を独占して繁栄します。

北イタリアとフランス・ドイツをつなぐ重要地点にあったミラノ公国や中部イタリアのフィレンツェ共和国も繁栄しました。

フィレンツェのメディチ家は銀行業で名高い一族です。15世紀前半のメディチ家当主コジモ=デ=メディチがフィレンツェの実権を握ると、子のピエロ、孫のロレンツェもフィレンツェを支配します。特にロレンツォは政治・外交にも優れイタリア全体に強い影響力を持った指導者でした。

ロレンツォは芸術家を支援し彼らの仕事を与えます。ボッティチェリ、ミケランジェロらへの援助が知られていますね。多くのローマ教皇も芸術の保護・育成に熱心にとりくみました。彼らパトロンたちが芸術家たちに表現する空間を与えました。こうして、イタリア・ルネサンスの条件が整ったのです。

イタリア・ルネサンス

image by PIXTA / 11989028

ルネサンスはイタリア諸都市の繁栄によって花開きます。その期間は14世紀~16世紀中ごろまで続きました。パトロンとなった都市貴族・富裕商人・ローマ教皇などが彼ら専用の場を飾る企画を芸術家たちに担当させました。その結果、数多くの芸術作品が生み出されます。ルネサンスが始まる13~14世紀、ルネサンスの最盛期である15世紀、絶頂から転落を迎える16世紀の3つにイタリア・ルネサンスを詳細に区分してみてみることにしましょう

13・14世紀~イタリア・ルネサンスの始まり~

12世紀・13世紀は十字軍の世紀です。十字軍の影響により東方貿易が盛んになると、ヴェネツィア・ジェノヴァなどが海運業で発展しました。このころの作品はキリスト教色が強いものが多いです。

13世紀にフィレンツェにあらわれたジョット『聖フランチェスコの生涯』で有名な画家。彼の画風はルネサンス様式の始まりとされています。ジョットの友人で詩人のダンテ『神曲』の作者。古代の詩人ヴェルギリウスが死後の世界をめぐる物語で、地獄・煉獄・天国をまわります。ラテン語ではなくフィレンツェのあるトスカナ地方の方言で書かれているのが特徴です。

ペトラルカは古代ローマの研究などを通じ、キリスト教以前の生き生きとした古代文明の様子をよみがえらせました。ボッカチオは1348年のペスト大流行を経験し、その体験を生かして『デカメロン』の中で描きました。教会の影響力はまだまだ強い時代でしたが、徐々にスポットライトを「個人」「人間」にあてつつあったのです。

15世紀のイタリア・ルネサンス

15世紀、イタリア・ルネサンスが最も華やかに展開します。建築家のブルネレスキはフィレンツェのサンタ=マリア=デル=フィオーレを建設し、今に残るフィレンツェのシンボルができました。彫刻の分野ではドナテルロが古代彫刻の様式を復活させます。ドナテルロの後援者として知られるのがコジモ=デ=メディチでした。

科学の分野ではトスカネリが「地球球体説」を唱えます。地球を平面的に考えるのが一般的だった中世で画期的な発想でした。のちに、コロンブスは地球球体説を参考にして西回り・大西洋航路へと船出します。

1453年にビザンツ帝国が滅亡するとギリシア人の学者たちの多くがフィレンツェなどのイタリア都市国家へと移り住みました。また、イギリスとフランスが長年争った百年戦争に決着がついたのも1453年です。

皇帝や教皇、封建貴族たちが力を持った中世が徐々に終わりを迎えつつありました。そんな中、イタリア・ルネサンスの最盛期を担った異なったタイプの芸術家たちが成長。ルネサンスは新たな展開を迎えるのです。

15世紀末・16世紀~イタリア・ルネサンスの最盛期~

今日、私たちがよく知っている芸術家たちの多くはこの時代に活躍しています。『ヴィーナスの誕生』や『』を描いたボッティチェリサン=ピエトロ大聖堂を設計したブラマンテ。『最後の晩餐』や『モナ=リザ』を描いただけではなく数多くの発明スケッチや城郭の設計までこなした万能の天才レオナルド=ダ=ヴィンチ

ダヴィデ像』を彫り上げ、当時第一級の彫刻家でありながら、絵画でも『最後の審判』を描いた偉才ミケランジェロ。数々の聖母子像の作成で知られたラファエロ。政治学の名著である『君主論』を著したマキアヴェッリ。教会に発覚するの恐れ、「天動説」という自らの発見を死の直前まで隠し通したコペルニクス。その他、大勢の芸術家・学者たちが出現した奇跡の時代でした。彼らの多くが自前の設備で作品をつくる民間の芸術家たちです。

その一方、イタリアの政治は混迷。ルネサンスの繁栄の保護者といっても良いほど力を持ったロレンツォ=メディチの死後、フィレンツェの政治は二転三転します。イタリアの混乱はやがてルネサンスを終わらせる大きな要因となるのです。

イタリア・ルネサンスの終焉

16世紀の中ごろ、ルネサンスの中心はフィレンツェからローマへと移っていました。ラファエロやミケランジェロはローマ教皇の依頼・保護の下、多くの作品を作成。ルネサンス最後の栄光の時代でした。

混迷するイタリアの政治を見て周辺諸国が干渉し始めます。1494年、フィレンツェの混乱に乗じてフランスがイタリアに侵入。イタリア戦争がはじまります。ちょうどそのころ、ローマ教皇レオ10世はサン=ピエトロ大聖堂の修築費用をねん出するためドイツで贖宥状(免罪符)を発売。それがきっかけとなり、ドイツで宗教改革が始まります。

宗教改革の影響によりヨーロッパ全土で戦争が頻発。イタリアも例外ではありません。1527年、ハプスブルク家のカール5世の軍がローマを略奪したことにより、ルネサンスの中心だったローマが徹底的に破壊されます。イタリア・ルネサンスはこれをきっかけに急速に衰退し、終焉を迎えました。

次のページを読む
1 2 3
Share: