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名曲にドラマあり!誰かに話したくなるクラシックのエピソード7選

名曲クラシック音楽と聞くと、敷居が高いというか敬遠してしまいがち、という方もいらっしゃるかもしれません。現代では「クラシック」と呼びますが、その時代に立ち戻ればどれもみんな最先端の音楽ばかりで、当時の世相を反映するエピソードがたくさん詰まっています。また、その作曲者たちにも、微笑ましく思えるような人間臭いエピソードがいろいろ。そこで今回は、クラシック界の巨匠たちをフューチャー。「へえ、そうなのか。ちょっと聴いてみようかな」と思えるようなエピソードをたくさんご紹介いたします。

思わずふふっ:名曲を生み出したクラシックの大家たちのエピソードとは

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クラシックとは「古典的」という意味の単語。音楽の世界では、一般的には17世紀頃から19世紀にかけてヨーロッパを中心に発展したものを「クラシック音楽」と呼んでいます。バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェン……大勢の芸術家たちが、後世に残る名曲をたくさん残していますが、もちろん当時は「クラシック」ではなく、時代をけん引する「最先端」の音楽。彼らは流行をリードするスターだったわけです。どんなエピソードが残されているのか、さっそく、クラシックの大家たちの世界へとご案内いたしましょう。

ピアノの詩人・ショパンは草食系だが女性にモテモテだった

フレデリック・ショパン(1810年~1849年)は、ワルシャワ公国(ポーランド)出身の音楽家です。

7歳の頃には既に作曲を始めていたと言われており、現在では「ピアノの詩人」と呼ばれるほど、美しく独創的な旋律を持つピアノ曲をたくさん世に送り出しました。

子犬がじゃれ合っているような、コロコロとした可愛らしいフレーズが魅力の『子犬のワルツ』、英雄の凱旋を称えるような力強さが魅力の『英雄ポロネーズ』、激しく行きかう音階とダイナミックな旋律で知られる『革命のエチュード』、心揺さぶる美しいメロディ『別れの曲』など、誰もが一度は聞いたことのあるピアノ曲ばかりです。

そんな才能あふれるショパンですが、子供のころから病弱で、パリで音楽家として成功をおさめてからも、あまり人前に出ることがなかったと伝わっています。

もともと、高貴で気品あふれる雰囲気を持っていたショパン。色白で端正な顔立ち、体系はやせ型で、くるっとカールした髪型が可愛らしく、おしゃれで服のセンスも抜群。有名人なのに(病弱なので)人前に出て「俺が俺が」というタイプでもなく、ミステリアスな雰囲気。そこに音楽の才能が加わったら、もう無敵。パリ社交界のご婦人方から「守ってあげたい!」と思われることも多かったようです。

ただ、ショパン自身はあくまでも奥手で控えめで、恋愛はいちず。選びたい放題だったはずなのに、片思いに終わった恋はあっても、社交界で浮名を流すことはなかったそうです。

一度は音楽の道を諦め法律学校に通ったチャイコフスキー

ピョートル・チャイコフスキー(1840年~1893年)はロシア出身の音楽家です。

チャイコフスキーと言えば真っ先に思い浮かぶのがバレエ音楽。『白鳥の湖』や『くるみ割り人形』、『眠れる森の美女』など、優雅で壮大な音楽を数多く世に送り出しています。

ロシアは広大な領地を持つ国。チャイコフスキー家はモスクワから数百キロ、ウラル山脈周辺の鉱山の町で暮らしていました。祖父は医者、父は製鉄所の監督官をつとめていたそうで、決して裕福とは言えないまでも、地元では人々から頼られる一家だったようです。

都市部から遥か離れた辺境の地ではありましたが、チャイコフスキー家は比較的文化的・芸術的な生活を送っており、音楽に携わる機会もあったと見られています。

チャイコフスキー少年には、子供のころから類まれな音楽の才能がありました。しかし両親には、彼を音楽家にするという発想はなかったようで、10歳になったチャイコフスキー少年はサンクトペテルブルクという街の法律学校に通うようになります。著名な作曲家としては珍しい経歴。子供の頃から音楽の学校に通ったり、音楽家の家に弟子入りしたわけではなかったのです。

法律学校を卒業したチャイコフスキー青年は、官吏(かんり:国家公務員や役人のこと)として法務省で働き始めます。

一度は役人として働き始めましたが、仕事に情熱を感じることができず、音楽への夢をあきらめきれず……。チャイコフスキーはロシア音楽協会という教育機関の存在を知り、1861年、このクラスに入学します。そして1863年に法務省を辞め、音楽の道に進んだのです。

マリー・アントワネットに求婚した天才少年・モーツァルト

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年~1791年)はオーストリア出身の音楽家です。

残された名曲については、もはや解説不能。オペラ、シンフォニー、ピアノ曲、バイオリン曲、管楽器協奏曲、弦楽四重奏……。わかっているだけでも700曲以上もの曲を書き残したと言われています。

ピアノ曲の代表格となっている『トルコ行進曲』やオペラ『フィガロの結婚』、現代でもテレビCMなどに数多く用いられている『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』など、斬新で人の記憶に残るメロディを、まるで神に愛されているかのように惜しげもなく次々と世に送り出した、史上最高の天才音楽家です。

その天才ぶりは幼少期から。父も音楽家だった関係で演奏旅行に同行する機会も多く、子供のころから「神童」と呼ばれていました。姉の演奏を聴いただけで曲を覚え、自分で演奏できるようになったという逸話も残っています。

それは演奏旅行でウィーンに行ったときのこと。女帝マリア・テレジアの前で演奏することになり、一行はシェーンブルン宮殿へ赴きます。モーツアルト少年はわずか6歳でした。

マリア・テレジアといえば名門・ハプスブルク家の当主。宮殿は広大で、モーツアルト少年は舞い上がってしまったのか、滑って転んでしまいます。このとき、当時7歳だったマリア・テレジアの娘が手を差し伸べてくれたのだそうです。

この王女こそ、後にフランス王妃となるマリー・アントワネット。既にこの頃から可憐な美しさで評判となっていました。モーツアルト少年は王女に向かって「大きくなったらお嫁さんにしてあげる」と言ったのだとか。

世が世なら無礼打ちの可能性もあるこの振る舞い、でもさすがは神童です。王女が何と言い返したか定かではありませんが、微笑ましいエピソードとして語り継がれています。

孤高の天才はメトロノームが大好き・ベートーヴェン

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「音楽の歴史を変えた」との呼び声も高いルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年~1827年)。もじゃもじゃ髪の肖像画で知られるドイツの音楽家です。

ピアノを習ったことがある人なら弾いたことがあるであろう『エリーゼのために』や、年末になると聴く機会が増える『交響曲第九番(歓喜の歌)』、切ないメロディが心に残るピアノ曲『月光』など、様々なジャンルの音楽を世に送り出した孤高の天才。音楽家として成功をおさめてから耳の病に悩み、聴覚障害を抱えながらも創作の手を止めなかったことでも知られています。

それまでの音楽家とは、基本的には王族や有力貴族などお金持ちのために作曲をしていました。どの音楽家もパトロンを持ち、支援を受けながら音楽活動をしていたのです。

しかしベートーヴェンは貴族たちのためではなく、民衆のための音楽活動に生涯を費やしました。現代では当たり前のことですが、当時としては画期的・革命的なこと。この点も、「音楽の歴史を変えた人物」と呼ばれる所以となっています。

そんなベートーヴェンは、なんと部類の「メトロノーム好き」。当時、ベートーヴェンほどメトロノームを音楽活動に活用した音楽家はいなかったろうと言われているほどです。

耳の病が影響している可能性も示唆されていますが、とにかくベートーヴェンはメトロノームが好き。メトロノームが世に出たのは1816年(ドイツ人のヨハン・ネポムク・メルツェルが特許を取得)で、音楽家として最初に購入したのがベートーヴェンだったと言われています。

あまりに天才すぎて誰もついてこれない・ワーグナー

険しい表情の顔写真を見た記憶がある方も多いでしょう。リヒャルト・ワーグナー(1813年~1883年)は「歌劇王」「楽劇王」の異名を持つドイツの音楽家です。

歌劇の音楽を多数残しており、壮大でドラマチックな曲が多いところが特徴。特に『ニーベルングの指環』の中で演奏される『ワルキューレの騎行』は、1979年公開のアメリカ映画『地獄の黙示録』で用いられ、歌劇ファンだけでなく多くの人に知られるところとなりました。

著名な音楽家たちの中には、子供のころから活躍しているケースも多いですが、ワーグナーは遅咲き。若い頃から音楽家として作曲に携わっていましたが、20代の頃にはまだ、なかなかヒット曲に恵まれませんでした。

根っからの天才肌で、残されているエピソードで判断すると、まるで絵にかいたような変人。自己中で浪費家、作曲に没頭しているときは周囲の人のことなどお構いなしで、日ごろから自分のことを「天才」と豪語していたのだとか。紙一重、とはよく言ったものです。

よく言えば豪快、悪く(普通に)言えば面倒な人。不倫の噂も絶えません。彼の才能に惚れ込み、お金を出してくれていたパトロンは何人もいたそうですが、その奥さんにちょっかい出したりしたこともあったとか。音楽の世界で成功していなかったらどうなっていたことやら。困った人です。

それでも音楽家として活躍し続けていたワーグナー。作曲家としての才能があったのはもちろんのこと、おそらくワーグナー自身に人間としての魅力があったのでしょう。

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