- 1.英国の伝統を知らない国王の登場
- 1-1絶対王政の樹立
- 1-2ジェームズ1世が選ばれた理由
- 1-3ジェームズ1世のやっちゃった政治
- 1-4国民を守らなかったジェームズ1世
- 2.チャールズ1世への反発はブリテン諸島全土へ
- 2-1ピューリタンを弾圧する新王
- 2-2怒りが募るピューリタンたち
- 2-3スコットランドでの反乱
- 2-4地元スコットランドの反乱に大敗
- 3. 起っちゃったピューリタン革命
- 3-1長期議会を招集する
- 3-2ピューリタン革命時の対立概要
- 3-3ピューリタン革命の始まり
- 4.イギリス初の共和制の確立と崩壊
- 4-1クロムウェルの独裁政治
- 4-2クロムウェルはまるで王様?
- 4-3共和制の崩壊
- ピューリタン革命は、イギリスの伝統を知らない野放図な王に対する市民の怒りが爆発した結果
この記事の目次
1.英国の伝統を知らない国王の登場
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ピューリタン革命は1640~1660年に、英国の「ピューリタン(改革派プロテスタント)」が起こした革命です。外国から来た野放図な王とその同士たちの王党派と国王の専制政治を反対する議会派の対立から勃発します。改革で議会派のリーダーとなったのが、独立派のクロムウェルです。改革後は、英国で唯一の共和制の時代が訪れます。それでは、「ピューリタン革命」が勃発するまでの歴史を覗いてみましょう。
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1-1絶対王政の樹立
16世紀の英国は、変革期でした。1485年に英国王へ即位したヘンリー7世から始まったテューダー朝は、貴族の権力を抑え込み、王の権力を強化する「絶対王政」の時代だったのです。その象徴といえる存在が、「処女王エリザベス1世」。一生独身で通した彼女には子供がなく、王位を継ぐ者がいなかったためテューダー朝が断絶します。ここから「ピューリタン革命」へ歴史は進んで行くのです。
英国ではエリザベス1世が1603年に亡くなるまでに、絶対王政を樹立していたので、国王がいない政治は考えられませんでした。そこで、英国王として新しい王が迎えられます。スコットランド王ジェームズ6世が、英国の王を兼ねることになり、ジェームズ1世が誕生しました。
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ちょっと雑学
ピューリタン(清教徒)とは、英国カルヴァン派の人々のことです。16世紀後半以後に、英国国教会の信仰と慣行に反発し、徹底的な改革を主張したプロテスタントで、日本では「清教徒」と訳されています。後に、信仰の自由を求めて1620年にアメリカ大陸に移住し、アメリカ合衆国の基礎を築いたのはピューリタンの人々です。
1-2ジェームズ1世が選ばれた理由
ジェームズ1世の母でスコットランド女王のメアリー=ステュアートの祖母がヘンリー7世の娘で、英国王族との血のつながりがあると、エリザベス1世が生前次の王に指名していたことで、ジェームズ1世が英国王に選ばれたようです。17世紀初頭にステュアート朝が始まりました。
英国(アイルランド王も兼任)とスコットランドが「同君連合(3国が同一の君主を持つ、ウェールズを含め4国とも)」という形で統合されます。議会は別々ですが、これにより411万人の人口を誇る英国を中心とする、複合国家体制が出現した瞬間でもありました。因みに、アイルランドは140万人、スコットランドは80万人です。
ちょっと雑学
ジェームズ1世の公式紋章は、英国とスコットランド、アイルランドを4分割した中に収めています。これは、ブリテン諸島の複合国家を意識していたことが示されているのです。英国はこの紋章が示す方向には進まず、王権と議会の政治的対立、国教会によるピューリタン弾圧、国王の恣意的課税に対する議会の反発など、問題が続出します。
1-3ジェームズ1世のやっちゃった政治
スコットランド王だったジェームズ1世は、英国の伝統を知らなかったのです。絶対王政政治が確立していた英国には、王様にとって魅力的な体制が目白押しでした。政治的には王権神授説を信奉し、議会へ不満を持つ王が議会の意見を無視したのです。ジェームズ1世著作の『自由なる君主国の真の法』を著すなど、「王権神授説の研究者」でもあり自分がその立場になれたことへの喜びは相当だったのでしょう。
宗教的には、英国国教会を市民に強制しますが、市民から反感を買ってしまいます。統一的な英語訳聖書『欽定訳聖書(国王の命令で翻訳)』を定めました。これは、近代英語の発展に、大きく貢献しています。
1-4国民を守らなかったジェームズ1世
同君連合を成したジェームズ1世の政治は、国教会体制を承認し、一方で自分の研究する王権神授説を強調したのです。英国を襲った1620年の大不況時の市民は、フランドルの亡命者から技術を学び、製品の開発をするなど精力的に克服します。薄手の新毛織物を開発し輸出に力を入れました。更に、染料や製紙、石鹸やガラス、金属製品など、新産業にもどんどん進出し、「実験企業」と呼ばれるジェントリーたちも登場したのです。
彼らは、困窮した農民たちに仕事を与え、輸入に頼らない国へと成長させます。一方王党派は、不況に対する抜本的な政策を打ち出すどころか、財政難を問題視し特定の産業や特権承認を保護するために独占権を濫発したのです。1621年には、コモン・ロー(一般的慣習法)を掲げる議会は、国王に抵抗し「大抗議」をします。この頃から既に、王政と議会とは対立状態だったのです。ジェームズ1世は、1625年3月27日にシーアボールズ宮殿で亡くなります。