5分でわかる「十字軍」派遣の理由や影響・その末路をわかりやすく解説
- 1.十字軍とは宗教戦争だったのか?その真相を探る
- 1-1.キリスト教・イスラム教それぞれの聖地だったエルサレム
- 1-2.イスラム教を憎悪するカトリック教会
- 1-3.十字軍結成のきっかけ
- 1-4.政治や権威の道具とされた十字軍
- 2.聖地を取り戻した大勝利【第1回十字軍】
- 2-1.野蛮極まりなかった十字軍
- 2-2.アンティオキアの陥落
- 2-3.ようやく聖地を奪還
- 3.史上最悪の十字軍【第4回十字軍】
- 3-1.目的地はもはや聖地エルサレムではない
- 3-2.盗賊集団になり果てた十字軍
- 3-3.他国の王位争いに干渉
- 3-4.キリスト教国のビザンチン帝国を滅ぼす
- 4.民衆による十字軍【民衆十字軍と少年十字軍】
- 4-1.悲惨な末路をたどった民衆十字軍
- 4-2.奴隷として売られた少年たち
- 5.十字軍騎士団の栄光と挫折【テンプル騎士団】
- 5-1.テンプル騎士団の栄光
- 5-2.テンプル騎士団の悲劇と最期
- 6.最後の十字軍。そして十字軍遠征が残したもの
- 6-1.十字軍国家へ圧力を加えるマムルーク朝
- 6-2.モンゴル民族と手を結んだエドワード
- 6-3.エルサレム進撃をあきらめる
- 6-4.十字軍が残したもの
- 十字軍が残したもの
この記事の目次
1.十字軍とは宗教戦争だったのか?その真相を探る
世界に存在する宗教といえばキリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教など多種多様にありますが、過去の世界において宗教をめぐる争いや戦争は数限りなくありました。しかしとりわけ異端者(他宗教信者)に対して最も苛烈で攻撃的だったのは、実はキリスト教だったのです。その中でもカトリック教会は中世ヨーロッパにおいて暗黒の歴史を刻んでいますね。そして十字軍運動もカトリックが中心となって動かしていったのでした。
1-1.キリスト教・イスラム教それぞれの聖地だったエルサレム
現在はイスラエルに属する都市エルサレム。この都市の歴史は古く、既に紀元前30世紀(今から5000年も前!)の頃から人が住んでいたといいます。
その後、紆余曲折を経てローマ帝国の支配下だった頃にミラノ勅令によってキリスト教が公認化されると、エルサレムは「キリストが生誕し、亡くなり、そして復活した場所」として一気に聖地化したのですね。
また、イスラム教にとってもこの場所は聖地でした。旧約聖書にも登場するアブラハムを起源とするところはキリスト教とて同じこと。
後に現れる預言者がイエスか?ムハンマドか?の違いだっただけのことなのですね。ムハンマドが手をついて天へ上ったとされる岩のドームがあるのもこの場所。だからこそアラブのイスラム国家は現在でもイスラエルを聖地だと主張しているのです。
1-2.イスラム教を憎悪するカトリック教会
正しくはエルサレムという場所は、キリスト教・イスラム教のほかにユダヤ教の聖地でもあります。しかしローマ帝国の迫害によって宗教的・経済的自由が脅かされるに及んで、ユダヤ戦争という争いが勃発。ユダヤ人たちは追放されてしまったのです。
7世紀になるとイスラム国家が支配して以来、エルサレムではイスラム教が公認の宗教でした。しかし当時のイスラム教は非常に異端者に対して寛容で、キリスト教会の存在なども認めていましたし、信者もたくさんいました。信教の自由は約束されていたのです。しかし、ヨーロッパのカトリック教会はそうは考えてはいませんでした。
「我々キリスト教信者が聖地と崇めるべきエルサレムを、なぜ異教徒たちが占拠しているのか!」その思いはやがて憎悪へと変わっていくわけですね。
1-3.十字軍結成のきっかけ
11世紀の終わり頃、現在のギリシャ~アナトリア半島(トルコ)を支配していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)が存在していました。
しかしイスラム教徒たちの侵略によってアナトリア半島を失うことになったのです。そこでビザンチン帝国皇帝アレクシオス1世はローマ教皇ウルバヌス2世に援軍を求めます。
当初は領土を奪還するために軍を貸してほしいとお願いしたはずが、ウルバヌスは鼻息荒く「では、ヨーロッパ諸侯の大軍団を催して聖地を奪還しようではないか!」と呼びかけ、ローマ教皇の言葉だということで西欧諸国が熱狂することになったのです。
1-4.政治や権威の道具とされた十字軍
しかし教皇ウルバヌスの思惑と野心は別のところにありました。当時、キリスト教会は東西に分裂しており、ウルバヌスは聖地を奪還できた暁には絶対的ヒーローとして権威を取り戻し、さらに自分自身の権力をも拡大できると目論んだのでした。これが足掛け200年にも及ぶ十字軍のきっかけとなったのですね。
大義名分こそ「キリスト教徒のために聖地を取り返す」というまっとうなものでしたが、裏を返せば、あくまで個人の野望でしかありません。
そんなことすら見抜けぬうちに、全ヨーロッパを失望と疲弊の渦に巻き込んだ十字軍が結成されようとしていたのです。しかし、敬虔な信者だった人間ほど「聖地奪還」というパワーワードに魅了されることとなりました。
2.聖地を取り戻した大勝利【第1回十字軍】
西欧諸侯による本格的な十字軍以前に、聖地奪回に熱狂した一般民衆による「民衆十字軍」と呼ばれる一大巡礼も行われましたが、それらが壊滅した後に、いよいよ十字軍本隊が出撃します。フランスやイタリアなどを中心とした諸侯の軍勢で編成され、そのまま破竹の勢いで進撃していきました。
2-1.野蛮極まりなかった十字軍
しかし、遠くヨーロッパから遠征してきた十字軍は、既に壊滅した民衆十字軍の人数も加えざるを得なくなり、次第に食糧が欠乏していくことになりました。
当時、世界で最も繁栄していたのが中東地域や地中海地域であり、ヨーロッパはどちらかというと田舎のような存在でした。騎士といえば華やかなイメージですが、実際は野蛮で、不潔で、残酷極まりない集団だっということなのです。
もちろん補給という概念もなく、食糧調達は占領地から略奪するか、現地の王族から施しを受けるしかありません。まるで強盗や乞食のような感じだったのですね。
それでもなんとかエルサレムへの進撃を続け、アンティオキアという都市に達しました。しかし、守兵は少ないながらも山と城壁に囲まれた城塞都市で、包囲はするものの陥落する気配すらありません。
2-2.アンティオキアの陥落
包囲すること8ヶ月。十字軍だけでなくアンティオキア守備軍も飢えに苦しんでいました。やがてイスラムのモスル軍がアンティオキアの援軍として到着します。そこで一計を案じた十字軍の指導者ボエモンは、門番を買収して、その城門を開かせることに成功しました。
十字軍はそのまま市街地へ雪崩れ込んで市民を虐殺し、放火し、略奪の限りを尽くしました。そして援軍にやって来たモスル軍を決戦で破り、敗走させることにも成功しました。
しかし十字軍の恐るべき行為は、アンティオキアを陥落させてからエルサレムへ向かう道中でもいかんなく発揮され、恐怖と侮蔑の対象となったのでした。まさに野蛮な西洋人たちの大集団だったのです。