イギリスヨーロッパの歴史

偉大な女王ヴィクトリアの跡を継いだ英国王「エドワード7世」の生涯とは?わかりやすく解説

エドワード7世は1901年からおよそ10年弱にわたってイギリス国王となった人物です。それ以上に、半世紀以上、皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)だった人物としても知られていますね。第一次世界大戦直前の10年間、イギリスに君臨したエドワード7世とはいったいどんな人だったのでしょうか。今回は、エドワード7世の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説します。

エドワード7世の両親

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エドワード7世は父アルバート公子、母ヴィクトリア女王の子として生まれました。彼の両親はいったいどのような人物だったのでしょうか。イギリス王室きってのおしどり夫婦として知られたヴィクトリア女王とアルバート公子、エドワード7世の子供たちについてまとめます。

エドワード7世の母、女王ヴィクトリア

女王ヴィクトリアは1819年に生まれます。父はケント公爵エドワード、母はドイツのザクセン=コーブルク公国出身のヴィクトリアでした。祖父ジョージ3世の死後、もっとも王位継承順位が高くなっていたヴィクトリアが女王に即位しました。時に18歳。若き女王の誕生ですね。

ヴィクトリア女王の治世は、産業革命を達成したイギリスが世界各地を植民地として支配する「大英帝国」ができた時代です。インドをはじめ、アフリカや東南アジアに植民地を獲得したヴィクトリア朝の時代はイギリスの最盛期と評されました。

ヴィクトリア女王の時代、イギリスの政治は保守党と自由党の二大政党を中心とするものです。イギリスのもっとも輝かしい時代であるヴィクトリア時代は、ジュエリーや家具などでも優れたものが多く、ヴィクトリア朝のアンティークは今でも価値のあるものが多いですね。

エドワード7世の父、アルバート公子

エドワード7世の父であるアルバートは、ヴィクトリアの母と同じザクセン=コーブルク=ゴータ公国(ザクセン=コーブルク公国とゴータ公国が同君連合を結成)の出身です。ヴィクトリアとはいとこ同士にあたりますね。

ヴィクトリア女王とアルバート公子の結婚を推し進めたのは両者の叔父にあたるベルギー国王レオポルド1でした。イギリス王ウィリアム4(ヴィクトリアの叔父)は二人の結婚に賛成しません。しかし、ヴィクトリアがアルバート公子に一目惚れ。ヴィクトリアが女王として即位したのち、二人は結婚しました。

アルバートの両親は父の浮気が原因で離婚。父も母も不倫で家庭崩壊という何とも悲惨な境遇。そのためか、アルバートはヴィクトリアに対し常に誠実な夫としてふるまったといいます。ヴィクトリアも生涯、アルバートを愛し続けました

ヴィクトリアとアルバートの間に生まれた子供たち

ヴィクトリアとアルバートは仲睦まじい夫婦でした。彼らの間には4男5女が生まれます。1840年、長女のヴィクトリアが生まれました。その翌年、長男のアルバート・エドワード(のちのエドワード7世)が生まれました。

エドワードの妹は1843年生まれのアリスと1846年生まれのヘレナ、1848年生まれのルイーズ、1857年生まれのベアトリス。弟は1844年生まれのアルフレッドと1850年生まれのアーサー、1853年生まれのレオポルドです。末の妹であるベアトリスとは16歳差ですから、かなりの年齢差だったことがわかりますね。

生誕と同時にコーンウォール公爵となったエドワードは、一か月後に皇太子を意味するプリンス・オブ・ウェールズとなります。エドワード自身、まさか、60年にわたってプリンス・オブ・ウェールズでありつづけるとは思わなかったでしょう。

エドワード7世の生涯

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W. & D. Downey – Weltrundschau zu Reclams Universum 1902, パブリック・ドメイン, リンクによる

ヴィクトリア女王とアルバート公子の間に生まれたエドワードは、長男であることから幼いころから次期国王として厳しい教育を叩きこまれます。それに嫌気がさしたのか、学生時代は素行不良で父親を悩ませました。父の死後、デンマーク王女と結婚したエドワードですが、素行面での改善は見られず、裁判に巻き込まれるなど王室の評判を落としてしまいます。父と同じ腸チフスにかかり、回復したエドワードはそれまでよりも柔和な王族として各国との融和につとめました。

幼少期のエドワード

1841年に生まれた長男は、ヴィクトリア女王の父であるエドワードの名とアルバート公子の二人の名をとってアルバート・エドワードと名付けられました。英語でアルバートの愛称は「バーティ(Bertie)」であることから、アルバート・エドワードは宮廷でバーティとよばれるようになります。

ヴィクトリアもアルバート公子も教育に関しては厳格な方針でした。その傾向は、姉のヴィクトリアがドイツに嫁いでからより強まります。厳しい視線を注がれるようになったエドワードは、窮屈な環境で育ったといえるでしょう。

1850年代、エドワードは両親にしたがって外国訪問を経験します。1852年に両親とかかわりの深いベルギーを訪問。1855年にはナポレオン3世統治下のフランス帝国を訪問しました。ナポレオン3世に可愛がられたエドワードは、彼に非常になついたともいわれますね。

父アルバート公子の死

1859年1月、当時は独立国家だったローマ教皇領に留学。教皇ピウス9世とも謁見しましたが、イタリア統一戦争の激化により5月にはイギリスに帰国します。同年10月、エドワードはオックスフォード大学に入学しました。

外国訪問などで一時休学しましたが、1860年11月には大学に復帰します。翌年、エドワードはケンブリッジ大学に転学しました。このころから、エドワードの素行は両親を悩ませるようになります。窮屈な生活の反動からか、エドワードが奔放な大学生活を送るようになったからでした。

1861年11月、エドワードの素行不良を憂えたアルバートが病を押してエドワードに説教しに来ました。エドワードは父の言いつけを守ると約束します。アルバートはこの時の無理がたたり、1861年12月14日に亡くなりました。死因は腸チフスです。

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