イギリスヨーロッパの歴史

1980年代に政権を握った「マーガレット=サッチャー」をわかりやすく解説

マーガレット=サッチャーは1980年代、イギリスの保守党を率い政権を担った政治家です。彼女はイギリス史上初の女性首相でした。サッチャーの評価は彼女が亡くなった現在でも定まっていません。イギリスの社会・経済システムを抜本から見直し、イギリスを活性化させイギリス病から国を救ったという評価と、強引な姿勢や80年代後半に高まった失業率などに対する批判とがありました。今回はマーガレット=サッチャーについてわかりやすく解説します。

首相就任前のサッチャー

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イングランド東部に生まれたマーガレット=ロバーツは食料品店の家に生まれます。大学進学後、デニス=サッチャーと結婚し出産と育児を経験しました。サッチャーは市議会議員や市長を務めた父のアルフレッドを尊敬し政治家を志望。下院議員選挙で当選し政治家としてのキャリアをスタートさせました。1970年には保守党のキース内閣で教育科学相に就任します。

生い立ちから結婚するまで

マーガレット=サッチャーは1925年にイングランド東部にあるリンカンシャー州のグランサムにあった食料品店の家に生まれました。敬虔なメソジスト教徒の家に生まれたマーガレットはグランサムの市長も務めた父のアルフレッドをとても尊敬。彼女が政治の世界に関心を持つきっかけを作りました。

オックスフォード大学に進学したマーガレットは、化学を専攻し1947年に卒業します。マーガレットは化学関連の会社に就職する一方、政治家になるための機会を探していました。24歳の時、マーガレットはイングランド南部のケントで下院選挙に出馬しますが落選。翌年の選挙にも敗北してしまいます。

1951年、マーガレットは実業家のデニス=サッチャーと結婚。現在よく知られるマーガレット=サッチャーとなりました(以下、マーガレットのことをサッチャーと表記)。1953年、サッチャー夫妻は双子に恵まれ、サッチャーは育児と政治活動に奔走します。

下院議員時代と「ミルク泥棒」と批判された教育科学相時代

1953年、サッチャーは弁護士資格を取得し育児と仕事の両立を目指します。と同時に、女性の権利の拡張を主張しました。前年にエリザベス2世が即位したことと相まって、女性の地位に関する関心が高まっていたこともその理由でしょう。

1959年、サッチャーはロンドン北部にあるフィンチリー選挙区に保守党候補として立候補。ついに、初当選を果たしました。

議員となってから11年が過ぎた1970年、この年の6月に行われた総選挙で保守党は政権を奪還。組閣したエドワード=ヒースはサッチャーを教育科学相に任命しました。

財政が悪化する中、教育関連予算の削減を迫られたサッチャーは児童に対する牛乳の無償配給を廃止します。この決定は多くの人々の反発をまねき、「ミルク泥棒」と批判されてしまいました。

第二次世界大戦後のイギリス政治

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サッチャーが政権を率いる前のイギリスは多くの困難な出来事に見舞われる危機的状況でした。大戦前に保有していた広大な植民地はどんどん独立。一方で、高福祉政策はイギリスの財政を圧迫しました。その結果、イギリスは弱体化し長期的な低迷である「イギリス病」にかかります。

次々と独立する植民地

イギリスは16世紀以降、世界各地を植民地として支配してきました。広大な植民地を持つイギリスはイギリス帝国と呼ばれることもあります。しかし、第一次・第二次の二つの世界大戦で、イギリスによる植民地支配は崩れました。

第二次世界大戦後の1947年、イギリスの最重要植民地だったインドやパキスンタンが独立。1940年代から1950年代にかけて、イギリスが所有していた南アジア、東南アジアの植民地も次々と独立していきました。

また、1957年のガーナの独立を皮切りにアフリカの植民地も次々と独立。1970年代以降は中東やオセアニア、カリブ海の国々も独立していきました。かつてのイギリスの繁栄を保証していた植民地の独立は、イギリスの社会・経済に大きな影響を与えていきます

ゆりかごから墓場までといわれたイギリスの社会福祉政策

第二次世界大戦の末期、ドイツの降伏で一足早く戦争が終結したヨーロッパでは、イギリスの総選挙に注目が集まります。結果は、チャーチル率いる保守党の大敗。ポツダム会談参加中だったチャーチルは帰国し、内閣総辞職します。

かわって組閣したのが労働党アトリーでした。アトリー内閣は国民が原則無用で医療サービスを受けられる国民保健サービスの確立を目指します。アトリー内閣が実施した社会保障政策は「ゆりかごから墓場まで」というスローガンのとおり、充実したものとなりました。

しかし、この高福祉政策は巨額の財政支出を伴うもので、政府は巨額の財政支出を迫られます。また、アトリー内閣は1945年から51年の間に石炭・電力・ガス・鉄鋼・鉄道・運輸などの重要産業を次々と国有化する社会主義的な政策を実施しました。

イギリスから活気を奪ったイギリス病

1960年から70年代、イギリス経済は長期的停滞に見舞われます。これをイギリス病(英国病)といいました。その原因はいくつか考えられます。

一つ目は、保有していた多くの植民地の喪失です。二つ目は、重要産業の国有化による競争力の低下。国有化により、経営努力が減退した企業は国際競争力が低下し、輸出が減少。イギリス貿易は赤字額が増大します。三つめは労働運動の激化。労働環境の改善や賃上げを求めるストライキが頻発し、自動車産業などは大きなダメージを受けます。

加えて、1973年のオイルショックの発生により経済の低迷と物価の上昇が同時に起きるスタグフレーションまで発生してしまいました。このようなイギリスの状況は「瀕死の病人」とさえ評されました。

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