フランスヨーロッパの歴史

5分でわかる法の精神!著者モンテスキューの思想や名言もわかりやすく紹介!

政治学や哲学と聞くと、なんだか難しすぎて取っつきにくいイメージがありませんか?たしかに大学などで専門の政治学を学ぼうとすれば、とてつもなく分厚い専門書を開いたり、小難しい講義を聞かねばならないことでしょう。でも、実際はそれほど難しくないのです。結論にたどり着くまでのプロセスが難解なだけで、答えはすごく簡単なことだったりするのですね。そこで、フランスの社会政治学者・哲学者だったモンテスキューが考えた「政治学」をひも解いていきましょう。そこにはあらゆる政治学のエッセンスが詰まっているのです。

1.モンテスキューはどんな人生を歩んだ人?

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中学や高校の世界史の教科書に登場するシャルル・ド・モンテスキュー。そうは言っても、ほんの数行程度しか登場しませんが、モンテスキューは「社会政治学」の父ともいわれ、アメリカ合衆国憲法やフランス革命の理念に大きな影響を与えた人物だったのです。まずは彼がどのような人物だったのか?生い立ちから見ていきましょう。

1-1.貴族として誕生したモンテスキュー

モンテスキューは、1689年にフランス南西部で生まれました。彼の実家は貴族階級で、経済的にも非常に裕福だったといわれています。フランスの哲学者といえば、パスカルやルソー、デカルトなどが有名ですが、いずれも役人や一般家庭の家に生まれており、モンテスキューほど高い身分の者がが哲学者になることは、当時としては珍しいことだったといえるでしょう。

モンテスキューが7歳の頃に母が亡くなり、その莫大な遺産をそっくり継承します。彼の領地はボルドー近郊のラ・ブレードにあって、現在も居城のラ・ブレード城が観光スポットの一つになっていますね。

やがて成長してボルドー大学法学部を卒業したモンテスキューは、父の訃報に伴って帰郷し、次いで伯父の死もあってモンテスキュー伯爵を継承。その後は裁判所の役人となるのですが、25歳の若さでボルドー高等法院の判事となり、次いで院長となりました。

1-2.貴族階級出身でありながら絶対王政を批判する

しかし、モンテスキューが優秀な裁判官だったかどうか疑わしいものがあります。貴族というだけでオートマチックに昇進できる時代でしたから、そんな不平等な社会構造に違和感を感じていたのかも知れません。そもそも彼はフランスの不合理な法律などに興味がなかったと言えるでしょうか。

そんな中、モンテスキューは本業そっちのけで政治哲学の執筆活動に没頭しており、1721年、32歳の時に初めて執筆した小説「ペルシア人の手紙」を世に出しました。その中に登場するペルシア人の言葉を借りて、当時のフランスの政治や社会を風刺し、国王による絶対王政制を強烈に批判したのです。

もちろんモンテスキューは貴族出身ですから、本来は国王側の人間。バレないように匿名で執筆したわけですね。

モンテスキューの著書その1「ペルシア人の手紙」

 

ペルシアの政治家ユスベクは、果てしない政争に疲れ果てて友人のリカとともにフランスへ渡ります。ペルシア人からすればフランスの首都パリは異文化の町でした。見るもの聞くもの全て珍奇に満ちたものばかり。

彼は故国の愛妾や召使たちにせっせと手紙を送り、自らの近況を伝えるとともに、フランスの政治や文化、果てはパリのコーヒー店に至るまで「異人の私にとって到底理解できない滑稽なことばかりだ。」と揶揄するのです。

モンテスキューは主人公ユスベクに自分の考えを語らせ、絶対王政末期の不条理に満ちた政治や思想を滑稽に風刺したのでした。

この作品は人々の快哉を浴び、かなり人気を博したそうです。

1-3.政治哲学のバイブル【法の精神】を出版する

たびたびパリに赴いてサロンに出入りしながら思索を深めていたモンテスキューは、37歳の時に高等法院を辞職。その後は思想研究と執筆活動に専念します。1728年にアカデミー・フランセーズの会員に選出されて以降は、3年間イギリスに滞在。立憲君主制の元での議会政治を研究したのです。

「ローマ帝国という大帝国がなぜあっさりと滅びたのか?それは共和制(議会制)から帝政(絶対王政)へ政治体制が変わってしまったからではないのか?」という命題をもって、暗にフランス王政を批判した「ローマ人盛衰原因論」を1734年に出版。

そして1748年に、ついに社会政治哲学のバイブルともいえる大著「法の精神」を出版します。彼はその執筆になんと20年費やしたといわれており、重版を重ねて現在に至るまで読み続けられているのです。

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After Jacques-Antoine DassierCollection Chateau Versailles, パブリック・ドメイン, リンクによる

しかしそんな彼も、晩年には視力の低下に悩まされて執筆活動も思うままにいかず、1755年にパリで没します。66歳でした。

その生涯の最期、辞典「百科全書」の中に「趣味論」を寄稿する予定でしたが、死期が迫る中でたった1文しか書けなかったそうです。

2.【法の精神】とはどんな内容だったのか?

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モンテスキューが執筆した【法の精神】は、現在でも日本語版が岩波書店や中央公論新社などから出版されており、一般的に広く読まれています。では、どんな内容が記述されているのか?まずは簡単に見ていきますね。

2-1.当時としては超ベストセラー&超ロングセラーだった!

この本はフランス絶対王政を批判する内容が含まれていたため、検閲に引っ掛からないようにやはり匿名で出版されました。出版されてからの2年間で20回も重版を重ねるなどベストセラーとなり、人々の快哉を浴びたのです。

しかし、この本に対して快く思わない人たちもいました。王侯貴族やカトリック教会など、旧来からの既得権益を守ろうとする勢力が異議を唱えたのです。この著書の中にはそういった既得権益を旨味にしている層や、権力を独占しようとする勢力を批判している部分が多かったので、反発が多かったのもうなずけますね。

こういった批判勢力に対して、モンテスキューは「法の精神の擁護」と題したスピンオフを出版して対抗します。その後、彼の考えに賛同した学者たちによって、各国の言語に翻訳されて世界中で読まれることとなったのです。

2-2.モンテスキューの社会政治哲学は現代に通じるもの

「法の精神」を読み進めていくと、ふと気付くことがあります。それは本の中で使われている政治用語が、現代でもよく使われているということに。

「法の精神」の中でモンテスキューが代表的なものとして挙げている【政体】【政治的自由】【統治権力の分立】といった用語は、現在の民主主義の根幹を為すもので、政治を語る上で欠くことができないものです。

アメリカ合衆国憲法や日本国憲法に通ずるもので、300年前のモンテスキューの学説が、現在もっともベストだとされている政治体制の基礎となっているのですから、驚くべきことでしょう。

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明石則実