5-2.七尾城でクラスターが発生!
丸裸とされた七尾城でしたが、関東地方で北条氏が動きを見せ始めたため、上杉勢はいったん退却せざるを得なくなりました。そしてその隙に城側は、謙信に奪われた多くの城を取り返すことに成功します。
しかし謙信はそれほど甘くはありません。関東の争乱にカタを付けた謙信は、翌年7月にすぐさま能登へ引き返し、再び七尾城を孤立させたのでした。しかも前回より厳重に。
完全に糧道を絶たれ、食べるものに窮した城側は地獄のような苦しみを味わいます。さらに悪いことに、付近の領民たちを全て城へ入れてしまったためにウイルスによる疫病が発生。密状態となっていた城内にクラスターが発生してしまったのです。
兵士たちも領民たちも、戦いではなく疫病によってバタバタと斃れ、幼主の畠山春王丸も亡くなってしまいます。この状況を悲観した重臣の遊佐続光は、以前から上杉と誼を通じていたこともあって裏切りに走り、ついに落城してしまったのです。
6.悲惨な籠城戦、三木の干し殺し【三木合戦】
兵庫県三木市には中世の城郭史跡である三木城があります。現在は宅地化されて多くの遺構が消失し、往年の面影は残っていませんが、かつて戦国の頃には、東播磨40万石を領する別所氏が君臨していました。しかし、織田に敵対したため、悲惨な籠城戦を展開することになったのです。織田方の大将は羽柴秀吉でした。
6-1.籠城戦始まる
当初、別所氏ら播磨(現在の兵庫県南西部)の諸将は織田の味方をしていました。ところが、みな武家の名門ゆえに秀吉の態度が気に入らなかったためか離反し、敵方であった毛利氏についてしまうのです。
播磨の武将たちは、黒田官兵衛以外はすべて織田の敵になるという有様で、さらに有岡城にいた荒木村重までが織田から離反し、籠城するという事態になりました。
毛利軍は素早く動いて上月城(兵庫県佐用町)を囲み、当主の別所長治も三木城へ籠城を開始。織田軍を迎え撃つ態勢が整いました。
ところが、播磨の諸将が待ちわびていた毛利の援軍は、上月城を落とした後に全く動こうとせず、一向に播磨へやってくる気配はありません。落胆したのは別所長治。せっかく籠城して織田軍を引き付けているのに、好機を逃すことはないと何度も使者を送ります。それでも毛利は動きません。
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6-2.孤立する三木城
織田軍がついに大軍を差し向けて三木城を包囲します。
その一方で、加古川城、高砂城などの城を攻略した織田軍は、三木城の補給路を寸断する作戦に出ました。別所方も奇襲をかけて必死の戦いを繰り広げますが、多勢に無勢。徐々に城の抵抗も弱まっていくのでした。
城方は飢えに苦しみ、次々に餓死者が出ることとなり、「三木の干し殺し」として歴史に名を残すことになりました。
さらに有岡城が落ち、別所氏の親戚だった波多野氏も滅亡。備前の宇喜多氏が織田に寝返ったことで、毛利の援軍は望めなくなってしまったのです。ついに三木城の運命も決したといっていいでしょう。
籠城してから2年近く。ついに別所長治は降伏勧告を受け入れて開城しました。その際に長治はじめ別所一族も自害したのですが、開城のどさくさに紛れて織田軍が乱入し、多くの人々を殺戮したと伝えられています。
香盤池(こうばんいけ)伝説
三木城開城の折に、大量殺戮が起こったという言い伝えとして、香盤池という地名が出てきます。現在の明石市魚住町にあるこの池で、三木城落城の折に殺した別所一族数百人もの亡骸を、ここに埋めたということです。
後世、水田開発のために一帯を掘り返したところ、大量の人骨と六文銭が出てきたという話もあり、供養のために六地蔵を安置しましたが、地元の人間は恐れて近づかないということです。
昭和40年代に、幹線道路建設の話があり、地質調査に加わった調査員が原因不明の高熱を出したり、良くないことがたびたび起こったため、盛大な供養をしたうえで工事を着工したとのこと。
近くにある延命寺には、香盤池にあった六地蔵が移され、別所一族の供養塔と由来を記した石碑が存在しています。
7.悲惨な籠城戦、鳥取の渇え殺し【鳥取城攻防戦】
羽柴秀吉は、とかく無理攻めはせず、なるべく人命を損なわないようにしているから名将であり仁将だ。と言われています。しかし、自軍の損耗を気にしているだけの話であって、それが決して残酷ではなかったということではないのです。三木城に続いて、この鳥取城でも史上まれにみる凄惨な籠城戦が展開されました。
7-1.吉川経家、鳥取へ入城する
鳥取城は、元々は山陰の名門山名豊国の持ち城でしたが、羽柴軍(織田方)に降伏しようとしたところで、徹底抗戦を叫ぶ豊国の重臣たちの大反対に遭います。結局、豊国は追放され、代わりに毛利の部将であった吉川経家が選ばれて入城することとなったのです。
急な展開であったため、取るものもとりあえず鳥取城へ入るのですが、籠城するには絶対的に兵糧が足りないということに気付きます。慌てた経家は、急いでコメの買い付けに奔走しますが、買い付けようにもコメじたい既にどこにもないという事態になっていました。
なぜなら秀吉が先に手を回して、商人に地域一帯のコメを全て高値で買い取らせたからです。金に目がくらんだ鳥取城兵までもが大事な兵糧米を売りさばく始末で、この様子に経家は愕然としたことでしょう。
7-2.秀吉に完全に包囲された鳥取城
そして、いよいよ羽柴秀吉が2万の軍勢を引き連れてやってきます。鳥取城を完全に包囲し、付近の住民まで城の中へ追い込むことに成功。動きを封じ込めたまでは良かったのですが、実は羽柴軍も苦境に立たされていました。
コメを商人に買い付けさせたために、自軍の兵糧まで調達できず、逆に羽柴勢のほうが飢える可能性があったからです。そこで、大ボスの織田信長に頼み込んで細川藤孝に輸送船団を組んでもらい、海路輸送で兵糧を運び入れようとしたのでした。
しかし、時を同じくして毛利方も海路輸送で鳥取城へ兵糧を運び入れようと企図しており、偶然にも織田と毛利の船団が鉢合わせする格好となったのです。
織田軍はタッチの差で先に荷を下ろすことができ、毛利軍は荷を満載したまま戦わねばなりませんでした。結果は火を見るよりも明らか。毛利水軍は叩きのめされて撤退。この瞬間に鳥取城の命運は決まったも同然でした。