7-3.人肉さえ食らいあう修羅場に…
籠城から二ヶ月。既に食料も尽き果てた鳥取城内では、牛馬どころか壁土、雑草すらも食べつくし、凄惨な有様となっていました。
餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず
(餓鬼のようにやせ衰えた男女が、城を囲む柵際へやってきて「ここから出して!助けて!」と泣き叫んでいる。その哀れな姿は正視できないほどだ)
引用元 信長公記より
糧尽きて馬牛などを殺し食いしかども、それも程なく尽きぬれば餓死し、人の宍を食合へり。子は親を食し、弟は兄を食し杯しける
(食糧が尽きて、牛馬なども殺して食べてしまったが、それも尽きてしまえば人は餓死してしまい、ついには人肉を食べるようになってしまった。子は親を食べ、弟は兄の肉を食べてしまう状況になっている)
引用元 豊鑑より
ついに、人々が人肉にすら手を付けて食べ始めたことで、経家もようやく開城することを決心します。鳥取城攻防戦は、まさに地獄絵図だったのです。
8.悲惨な籠城戦を描いた「おあむ物語」【大垣城の戦い】
現代の私たちには、戦国の戦いの悲惨さを知るすべはありません。しかしレアケースですが、戦いに参加した人々の日記や回想などによって、当時の状況を知ることができるのです。少女時代に籠城戦を経験した「あおむ」の物語を紹介していきましょう。
8-1.関ヶ原の戦い当日
西軍(石田三成)と東軍(徳川家康)の決戦の舞台となった関ヶ原。1600年9月15日早朝に開戦しましたが、ちょうど同じ頃、少し離れた大垣城でも籠城戦が繰り広げられていました。
大垣城は西軍の拠点となり、当時は福原長堯が守将として在城していました。そこへ東軍が攻め掛かり、その日のうちに三の丸が攻め落とされたといいます。
石田三成の家臣で山田去暦という者がおり、2人の息子と1人娘おあむと共に大垣城に籠っていました。彼は主君石田三成の勝利を信じ、懸命に戦っていたことでしょう。
しかしその日の夜、「関ヶ原にて西軍敗れる」の報に接するのです。
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