幕末日本の歴史江戸時代

幕府にも勤王にも嫌われていた?「勝海舟」の生涯をわかりやすく解説

神戸操練所

朝廷から「攘夷」が上洛した将軍・徳川家茂にくだされたということで、攘夷運動の機運が高まっていき、文久3年(1863)に兵庫や西宮に砲台の築造を決定しました。その指導者として任命された勝海舟は徳川家茂の大阪湾巡視に随行して、生田川河口(神戸市)を進言して、直々にここに海軍の操練局開設の許可をもらいます。幕府が正式に海軍士官養成機関、海軍工廠だったのですね。その時に勝海舟の私塾も作っていいという許可も出ましたよ。この頃に西郷隆盛と会っていますね。

しかし、ここに集まってきたのは佐幕派の人たちだけでなく、後に倒幕派となる薩摩や土佐藩の脱藩者がたくさん入ってきました。それをすべて受け入れた勝海舟に、保守派からしたら勝海舟の「日本の海軍」というのは胡散臭く、一橋慶喜をはじめとしてかなり嫌われていたようですね。それを尻目に神戸は港町として、これから発展していくと目をつけた勝海舟は、世話になった人たちに「ここの土地を買え」とすすめて自分も買ったようですが、幕府に取り上げられてしまいましたよ。八月十八日の政変がきっかけで長州藩が京都へ進攻した禁門の変の責任を取らされて軍艦奉行を罷免。ここも閉鎖されてしまいました。

ここは明治になって外国人の居留地となり、現在は阪神淡路大震災の慰霊の「ルミナリエ」の出発地点となっています。

江戸城無血開城と勝海舟

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政治は京都が中心となっていっています。その間の勝海舟はというと、2年間蟄居生活をさせられていますよ。よほど幕府にとって危険人物だと思われていたのでしょうね。しかし慶応2年(1866)5月28日、長州藩と幕府の関係最悪になる前に軍艦奉行に復帰します。他に話ができる人がいなかったのでしょうね。長州征伐の時も交渉に行かされて成立したのに、慶喜が勝手に朝廷から停戦勅命をもらったことで憤慨して辞表をだしますが却下されていますね。その後は大政奉還までの動きはありませんよ。

山岡鉄舟という人

さて、慶応4年(明治元年、1868)戊辰戦争で大阪から味方を放り出して勝手に江戸に逃げ帰ってきた十五代将軍・徳川慶喜。官軍と戦う気など全くなく引きこもってしまいましたよ。叱る勝海舟に「頼れるのはおぬしだけ」と言われてはどうにかしなくてはなりません。最後の老中「板倉勝静」から最後の海軍奉行並・徳川家の家職である陸軍総裁・陸軍取扱という職を任命されました。半ば押しつけられたような感もありますね。官軍が駿府城(現・静岡県)にまで迫ってくると早期停戦と江戸城の無血開城を主張したのですね。

「幕末の三舟」という人たちがいます。高橋泥舟・勝海舟と山岡鉄舟ですね。実はこの駿河で山岡鉄舟が西郷隆盛に会っているのですよ。それでいてすべての功労は勝海舟にあげちゃったという人で、かっこいいですね。閣議で「将軍は恭順しているから命だけは助けてください」という交渉をするということが決まりました。最初は高橋泥舟が行くという話でしたが、慶喜が大反対をして山岡鉄舟が行くことになったのですよ。

3月9日、山岡鉄舟は勝海舟を訪ねました。皆から「山岡鉄舟には気をつけろ、斬り殺されるぞ」と散々言われていた勝海舟ですが、会って手はずを整えます。処刑寸前の薩摩武士・を説得して案内役にして、予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前に海舟が西郷と会談、江戸城開城と徳川宗家の今後などについての交渉を行うということでした。

山岡鉄舟と西郷隆盛

山岡鉄舟は途中で足をケガをして案内役の益満休之助が役に立たなくなり、追われてダメかというところを、幕末の大侠客・清水次郎長に助けられて、その手引きで駿府伝馬町「松崎屋源兵衛」宅で会談することができました。堂々とした山岡鉄舟の態度に惚れた清水次郎長は、山岡鉄舟の子分になったといわれていますよ。

会談は徳川慶喜の扱いについてもめて、西郷隆盛がいったん持ち帰るということで、おおむね合意となります。

山岡鉄舟との会談

1.徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること。
2.江戸城を明け渡すこと。
3.軍艦をすべて引き渡すこと。
4.武器をすべて引き渡すこと。
5.城内の家臣は向島に移って謹慎すること。
6.徳川慶喜の暴挙を補佐した人物を厳しく調査し、処罰すること。
7.暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。

勝海舟と西郷隆盛

3月13日・14日と会談は2回あったといいます。ひとつは池上本門寺の庭園・松涛園で、もうひとつは薩摩藩江戸屋敷。なぜか薩摩藩江戸屋敷ばかりが有名ですが。勝海舟はこの会談が破談となった場合は、攻撃される前に火消し達の協力を仰いで江戸に火を放って、避難民は江戸湾に停泊させた船でできるだけ救助させるつもりだったといいますね。これはナポレオンに対してロシア帝国がした戦略を参考にしたといいますよ。西郷隆盛は戦いに積極的な者達を会談が終わるまで押しとどめていたといいますね。

会見は、ドラマや映画や小説ではふたりだけになっていますが、実際は幕府から大久保一翁・山岡鉄舟、官軍から村田新八・桐野利秋も同席していたといいますね。1回目は徳川家茂の正妻・和宮の処遇や、山岡鉄舟が駿河で提示した条件の確認と質問ということで終わったようですね。そして2回目は官軍からの返答ということになりました。

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紫蘭