幕末日本の歴史江戸時代

幕府にも勤王にも嫌われていた?「勝海舟」の生涯をわかりやすく解説

官軍からの返答

1.徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。
2.慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。
3.武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。
4.城内居住の者は、城外に移って謹慎する。
5.江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。
6.暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。

明治の勝海舟

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勝海舟の思惑からはずれ、新政府軍となった官軍と旧幕府軍との戦いは続きます。勝海舟にとって戦いが長引けばイギリスとフランスの思惑通りに植民地にされるか、国が2つに割れるという懸念があったようですね。会津藩への批判を「海舟日記」に書いています。

新政府になってから勝海舟は、旧幕府代表として外務大丞・兵部大丞・参議兼海軍卿・元老院議官・枢密顧問官と任命されますが固辞したりなってもすぐやめてしまったりしていますね。そして伯爵をもらっていますよ。そこのところを福沢諭吉から批判されているのでしょうね。しかし政治向きにはほとんど口をだしていません。

勝海舟は明治でなにをしていたの?

明治になって勝海舟がやっていたことを羅列していきましょう。

〇徳川慶喜への赦免を30年間続けて、明治31年(1898)3月2日に明治天皇に拝謁を許されて公爵を授爵して徳川慶喜家を興すことができて、徳川慶喜の末子と孫を結婚させて和解。

〇旧幕府の家臣・その家族への金銭的援助。

〇活動に援助してくれていた「川上善兵衛」にワインの製造と葡萄栽培をすすめて、日本で最古である新潟県岩の原葡萄園・岩の原ワインが作られた。

〇西南戦争で亡くなった西郷隆盛の名誉回復を明治天皇に願い、上野の銅像設立を支援した。

嫌われていてもここ一番には勝海舟

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勝海舟は、日本海軍の父ともいえる人物でした。そして情に熱い人ですね。晩年は赤坂の氷川で過ごして政府から頼まれて『吹塵録』『海軍歴史』『陸軍歴史』『開国起源』『氷川清話』などを著作や口述して残しています。海軍だけでなく明治政府の下敷を作った人ともいえますね

明治32年(1899)1月19日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、生姜湯が間に合わずブランデーを飲んだとたんに脳溢血で亡くなりました海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」。なんとも勝海舟らしい最期の言葉じゃあありませんか

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紫蘭